16 ロ−マ人の手紙  題 「人生の勝利の力 忍耐」 2003/3/9

「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」
(ロマ5:4)

私たちはイエスキリストを通して「神との平和」に導き(完了形)入れられました。平和と訳されたことばは「シャロ−ム」です。平和とは単に争いや戦争がない状態を指しません。さらに心の平安や安息といった個人的感情を指すのでもありません。シャロームとは「神と人間との和解関係」を指しています。しかも「満ち溢れている状態」をさすことばと言われています。旧約聖書は人間の幸福はどこにあるのかとの問いに対して、「神との和解」の中にあると教えています。「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう。神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。あなたは自分の天幕から不正を遠ざけ、宝をちりの上に置き、オフィルの金を川の小石の間に置け、そうすれば全能者はあなたの黄金となり、尊い銀があなたのものとなる。そのとき、あなたは全能者をあなたの喜びとし、神に向かってあなたの顔を上げる。あなたが神に祈れば、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たせよう。あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。あなたが低くされると、あなたは高められたと言おう。神はへりくだる者を救われるからだ。」(ヨブ22:21−29)

私たちはそのような関係の中に導きいれられたばかりでなく「その恵みに立つ」者とされているのです。その恵に「しっかりと立つ」者であることが期待されています。神との平和こそが「今立つ恵み」だからです。

1 神を喜ぶ

神との和解と平和に導きいれられた私たちは、神の栄光を「大いに喜んで」(2)います。カウカオマイという言語はパウロが30回も使用している言葉で「勝ち誇る」という意味があります。神の恵みに立つことは、神の恵みを受けるばかりでなく「誇り」とする積極的な態度を意味します。かつては自分の力やわざや行いといった手柄を誇っていた私たちです。罪人の特徴は自分を誇りたがることです。学歴を誇り、経歴を誇り、持ち物を誇ります。「私は町一番の5目並べの名人、向かうところ敵なし、天才ではないか」と自慢する男性が町の将棋名人や囲碁名人を破り得意げになっていました。そこで「連珠連盟」に果し合いに行きますが、小学校6年の男の子にも80歳を超えたおばあちゃんにもコテンパンにやられてしまいます。彼らは軽く15手先まで読めるそうです。天才の実力はせいぜい6級程度と認定され「天才も井の中のかわずである」ことを知らされていました。

自慢話におさまらず、自分の栄光を誇ろうとして、他人を見下したりひどい場合は意図的に貶めようとさえしてしまいます。悪口、陰口、誹謗、中傷、そんなみにくい罪の中にかつては身を置いていたお互いではないでしょうか。

しかし今やキリストにあって、そのような肉的な誇りは取り除かれ、自己讃美は神への賛美となりました。他人から誉れを求めようと言う欲求は、神が喜ばれることを願う思いと変えられました。もし誇るものがあれとすれば「イエスキリストの十字架」を誇るのみです。神との平和に立つものは神の恵みを誇るものと変えられてゆくのです。「私たちは今や和解をえさせてくださった私たちの主イエスキリストによって神を喜ぶ」(11)のです。

 2 艱難を喜ぶ

第2に私たちは「艱難さえも喜びます」。このことばをあまり勇ましく解釈しないほうが適切だと思います。さまざまな困難や試練を好んで求める人などいません。艱難を喜ぶおめでたいクリスチャンなど私が知る限りだれもいません。艱難を喜ぶとは、「艱難がきてもそれを喜びと考えてみようとする」発想の転換をさしていると思います。そのような発想の転換は「艱難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、品性があらたな希望を生みだす」(3−4)という神のことばに裏付けされています。神との平和−喜び−艱難−忍耐−練られた品性−希望、これを私は「恵みの連鎖」と呼びたいと思います。

生まれながらの人間は、「暴力と憎しみの連鎖」の中に置かれやすいのです。忍耐や寛容さを失いすぐに切れて怒ったり復讐に走りやすいのです。早く結果を求めたいとイライラしたりあせったり、おどしたりすかしたりしがちです。しかし、神との平和に導きいれられ、神の恵みに立つ者たちは、「恵みの連鎖」に留まることを願います。忍耐と練られた性質、つまり奥行きのある練達した精神が「勝利をもたらし真の希望を生み出す」と信じているからです。

この場合の奥行きとは、艱難がきたときに、そこには意味があると静かに受け入れてみる信仰的態度です。嫌なことは「避けよう、楽をしよう」とする態度からは要領のよさ、八方美人、世渡り上手という能力は磨かれるでしょうが、その人生は底の浅いものとなります。

 オ−ストリアの精神科医ビクトール・フランクルはユダヤ人収容所での残酷な日々を「夜と霧」という本にまとめました。900万部も売れた著作です。2人の囚人が絶望し自殺をしようとしますが、フランクルは「あなたが人生に失望しても人生はあなたに失望し

ていない。あなたに対する期待を捨ててはいない。あなたを必要とする何かが、あなたを必要としている誰かがどこかにいる。その何かや誰かはあなたに発見されるのを待っている。どんなときにも人生には意味がある。」と問いかけました。娘が待っている、科学の著作シリ−ズが自分の手によって完成されるのを待っていることに気づき、彼らは生きる力を回復したのでした。このフランクルの哲学を「絶対的な人生肯定の哲学」といいます。

 与えられた運命にどのような態度をとるか、その生きる態度によって人生の価値も決まって行くのです。

ものごとを悪いように悪いように考えればますます悲観的になり、いじけた性質にようじよなってゆきます。ものごとをいいようにいいように考えれば楽観的になり、明るい性質になってきます。これを「肯定的思考」といいます。また、「できない」と否定的に考えるのでなく「できる」と考えるところから新しい独創的な発想や発明が生まれます。これを「可能性思考」と言います。そして肯定的思考や可能性思考は人生を肯定的で建設的なものへと変えてゆきます。

聖書は肯定的思考、可能性思考ということばを使いません。古風な表現ですが、「忍耐に裏づけされた練達が希望を生む」と教えます。ヨセフは兄たちの手によってエジプトの奴隷商人に売られるという悲劇に見舞われました。しかしヨセフは忍耐と神への信頼を失わず、やがてエジプトの大臣にまで登りつめました。ヨセフの生涯の中に私たちは「信仰と忍耐」の完成された姿を学ぶことができます。イエス様の弟ヤコブも、信仰による忍耐の大切さを語っています。忍耐は神との平和に導きいれられた人々の人生を意味あるものとし勝利を与えてくれる「力」なのです。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)


     

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