ピリピ人の手紙 1


曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」
(ピリピ
214-15









 
次週27日は、宇治教会が単立教会から日本バプテスト教会連合に加入して25周年となります。連合の理事長をつとめておられます緑バプテスト教会の河野勇一牧師を迎えて午前の感謝礼拝と午後からの修養会を開きます。私たちは特別な記念行事を計画するよりは、じっくりとみことばに耳をかたむけ、信仰が整えられることを待ち望みたいと願い準備を進めてきました。

宇治バプテスト教会は誰も信徒がいない開拓からのスタ−トでしたから多くの困難や試練にたびたび直面しました。そのたびごとに、神様の恵みと守りと、多くの兄弟姉妹たちの祈りと愛に支えられて、25年の歴史を重ねてこれたことを思い起こし心から感謝しています。

さて、ピリピの教会の中に見られた分裂の兆しや不一致に心を痛めていたパウロは、まず何よりお互いが「虚栄」や「利己中心」から離れ「キリストの模範にならい」、真の謙遜をもって仕えあおうと呼びかけました。キリストは自らへりくだって人となってこの世に来られ、十字架の死に至るまで父なる神様のみこころに従順に従われました。神様はそれぞれに進むべき道を示し、それぞれの教会にふさわしいみこころを示されます。神様によって示された道と御心に「つぶやかず・うたがわず(争わず)」従順に従うならばそこには祝福があります。というのは、神様がその人の中に「こころざしを与え導かれたからです」。神様が備えられたご計画と導きに過ちは決してありえないからです。

1 救いの達成に努めて下さい(12

パウロは「救いの達成に努めてください」と呼びかけています。この場合の救いは「罪の赦しをうけ永遠のいのちを得る」という魂の救い(義認・新生)を意味するより、むしろ信仰生活の成長をさしていると考えられます。「救い」ということばを私たちは文脈に応じて3つのステップで理解したいと思います。

第1ステップは「魂の救い・新生体験」です。誰でもキリストにあるならその人は御霊によって新しく造られたものであると聖書は教えています。永遠のいのちは人間の努力によって獲得するものではなく、神様からの恵みの贈りものとして受け取らせていただくものです。私たちクリスチャンは神様の恵みによって、十字架の血による赦しを受け、神の子とされたのです。

ですから、人間のいかなる宗教的な努力も必要ではありません。100%、神様の恵みのお働きです。福音を信じるとはこのような信仰を意味しています。この神の恵みを信じてまず心の平安をいただきましょう。

第2ステップは「クリスチャンとしての成長」の段階です。生まれたばかりの乳飲み子から大人のクリスチャンへ、肉に属する人から御霊に属する人へ、信仰が成長してゆくことを神様は願っておられます。成熟したクリスチャンとして神様と教会と社会に仕えることができるように、祈りとみことばによって一人一人が整えられてゆく過程を指しています。

3ステップは「キリストの再臨、終末における救いの完成」をさします。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるという救いの完成を指します。神の国に国籍を持つ希望がついに成就する喜びの瞬間と言えます。もちろん救いの完成は人間の努力によって得られるものではありません。神様の新しい創造の御わざであり、神の栄光が証しされる祝福の時といえます。

パウロが「救いの達成に努めてください」と呼びかけたのは、多くの試練や困難に満ちたこの世界で、よく祈り、みことばに強められて、各自が信仰生活を全うするようにとの励ましを与えるためでした。

クリスちゃんとしての成長には、個人的な信仰生活の成長だけではなく、自分がその一枝とされた教会に奉仕をささげ、他の兄弟姉妹たちと交わりと一致を保ち、教会の宣教の働きに仕えてゆく「教会生活」における成長が含まれます。体の成長、精神的な成長、霊的な成長、社会的な成長の4つの側面がトータルに育まれてはじめて健康な成長といえます。そこで、私たちクリスチャンは、「教会」という霊的な共同体社会において、「教会人」として健康に成長することに十分に心を注がねばなりません。「救いの達成に努める」とはそのような意識をしっかりと養い育てることでもあるのです。

ピリピの教会が分裂や不一致や虚栄や争いという教会の中でしばしば起きてくる問題を「神様への従順によって」解決することができるまで十分に成長したならば、パウロは「自分の努力したことが無駄ではなかった」「キリストの日に誇ることができます」(16)と大きな喜びを率直に語っているのです。

2 いのちのことばを握って星のように輝く

パウロは救いの達成につとめるという表現を「いのちのことばを握って星のように輝く」(16)と言い換えています。クリスチャンと教会がこの世俗社会の中で輝くためには「いのちのことばを握る」ことが不可欠です。「いのちのことば」とは「福音」に他なりません。キリストのことばと言っても良いでしょう。

世の風潮やはやりに流されず、キリストのことばにしっかりと立つことです。

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」
            (マタイ
724-25

いのちのことばをしっかり「握る」とは強く握ることです。なぜなら、弱い持ち方ではちょっとした衝撃でもすべりおちてしまうからです。パウロはコロサイの教会には「キリストのことばを豊かに宿らせなさい」と教えています。

「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から
神に向かって歌いなさい。」
(コロサイ316

さらに、「星のように輝く」とあります。星が輝くのはいつでしょうか。夜です。いわば「試練や困難の時」こそ「みことばを握っている者は輝く」ことができるのです。闇の中に吸収されてしまうのではなくむしろ反対に輝きを増し加えるのです。

しかも多くの星は自分から光を放つのではなく太陽の光を反射して輝いています。同じように私たちの輝きは私たち自身のなにか人間的な輝きというのではなく「うちなるキリストの輝き」つまりイエス様の輝きなのです。

私は若いとき一度だけ、人生の岐路に立たされたことがあります。大学卒業後、牧師になる召しを受けてインマヌエル聖書塾という学生数名の私的な聖書学校で学びながら献身生活を送っていました。伝統のある神学校とは異なりたいへん小さな私塾でしたから、ギリシャ語もヘブル語もしっかりとした組織新学の授業もありませんでした。私は学びに対する強い不満を覚え、このまま卒業しても牧師としてやってゆけるのかまったく自信がありませんでした。それで将来の導きを祈る為に、1ヶ月の休みをもらい実家に帰りました。子供の頃、通っていた教会の礼拝や祈祷会に出席をしましたが、児童福祉施設を経営しておられる信徒さんに誘われて施設でボランティアをしました。

その時、施設の小さな本棚の中に古びた一冊の本を発見しました。ウォッチマン・ニ−の「キリスト者の行程」という説教集でした。読み出すうちに私の目が開かれました。趣旨は「クリスチャンは自分から行動するのではなく、まず「座り」十分に祈ること。み言葉が与えられたら「立ち上がる」こと。たち上がったなら前途に困難試練があってもひるまず「歩み続ける」ことを解き明かしている印象深い本でした。「あまりに多くのクリスチャンが自分で設計図や青写真を描いて神様の「祝福」という証印をもらおうとしている。そうではない! 神様の計画に私たちはただ従順に従うだけである。従うものを神様は祝福してくださる」という指摘は心に響きました。私はこのとき、クリスチャンの歩みの原則を学ばせていただいた思いがしました。

1ヵ月後、教会に戻りましたがさらになお1週間の祈りの時をもちました。聖書とノ−トをもって宇治川のほとりへ毎日出かけて祈りました。数日後、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ127)とのみことばが与えられました。牧師として大切なことはどこかの神学校を出ることではない、語学に長けることでもない、「内住のキリスト」への信仰と喜びが満ちていることと導かれ、一気に迷いと不安が解消しました。キリストが私のうちに生きておられる!この事実こそが真理でありいのちなのだと爆発的な喜びが湧き上がってきました。ウォッチマン・ニ−が「座れ」「立ち上がれ」「歩け」と語ったように、私はみことばと共に立ち上がることができ、神に委ねる幸いを深く味わうことができました。実はその時の感激を忘れない為に、私は足元の川辺の石を拾い、日曜日に礼拝説教を語る講壇の中に今もその石を置いています。

神様は従う者に必ず恵みと祝福を最もふさわしい時に与えてくださるお方ですね。わたしが神様に委ねて導かれたところに従い小倉教会の奉仕担当者とした歩み出して7-8年後、主任牧師が引退することになり、私が教会を引き継ぐこととなりました。その時、東京にある聖契神学校で学ぶ案が、加入することとなった教会連合の理事長から提案されたのでした。すでに結婚し幼い子どもがいた私は思いもよらない提案に驚きました。もう忘れていた10年前の出来事がよみがえってきました。たとえわたしが忘れていても神様は覚えておられ最善の時に最善の神学校で学ぶ祝福を与えてくださったのです。神様のなさることはみなときにかなって美しいといえます。通常4年かかる神学校も1年半で卒業することができ、神学校生活を通して多くの友も得ることができました。

キリストのことばをしっかりと握り、信じ、従う者に必ず神様の祝福と最善の備えは伴います。私自身もそのことを体験することができました。みことばを握るならばあなたにも力が満ちることでしょう。なぜなら、神のことばには力があるからです。

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、
 関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」(ヘブル
412