何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分より
もすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
」(
ピリピ2:3-4

ピリピ人の手紙 1









京都の綾部で産声をあげやがて大企業に成長したグンゼ株式会社は、会社の歴史が100年を超えました。会社が出版した「百周年記念誌」を今、興味深く読んでいます。初代社長の波多野鶴吉さんはたいへん謙虚な方でした。若い日に放蕩三昧な生活をして病気になり自殺さえ考えたことがありました。波多野さんはそんなどん底のただ中でキリストに出会い新生の恵みを経験したのです。河合信水師を迎えてキリスト教信仰を土台にした会社づくり、社員教育をしたことで知られています。彼は生涯、神のしもべとしての歩みを全うしました。

さて、ピリピ教会の中に分裂の兆しが見られたため、パウロは一致を保つ大切さを2章1-2節で教えました。さらに3−4節では「自己中心」と「虚栄」が教会の一致を妨げ、交わりに混乱を起すことを指摘しています。自分のことしか考えず、他人のことを顧みないことを自己中心といいます。自分は他人よりも優れているといううぬぼれを虚栄といいます。そしてパウロは自己中心や虚栄にとらわれるのではなく「へりくだる心」「真の謙遜さ」をお互いが身につけて成長することを教えています。

1    生まれながらの古い人間の特徴は自己中心と虚栄です

自己中心のことを「わがまま」「自分勝手」「身勝手」「エゴイスト」と言い換えることができます。

自己中心とは「自分のことや自分の利益のことばかり考えて他の人のことを顧みることができない態度」ともいえます。英語では「自分の関心ごとばかり」と記されています。

淀川キリスト教病院の柏木先生が講演会の中で人間の自己中心性をご自分の経験を通してお話ししてくださいました。「記念写真をとるとまず自分の顔がきれいに取れているかみんな関心が集りますね。自分がきれいにとれていたら「これはいい写真だ」と言いますが自分の映りが悪いと、周囲の人たちがどんなにきれいに写っていても「この写真は良くない」と言います。いかに人は自己中心なのでしょう。それから駅から病院までの道がたいへん狭いのですが、自分が歩いている時に車がその道に入ってくると「何でこんな狭い道に車が入ってくるんだ! 」と文句をいい、反対に自分が車で病院に入る時は歩行者を見て「なんでこんな狭い道をぞろぞろしかも道の真ん中を歩いているんだ!」とつぶやいている自分に気がつき、ほんとうに人間は自分勝手なんだなと自分でもあきれました」と苦笑されていました。「なるほど自分にもあてはまるな」と私も思わずうなずいた覚えがあります。みなさんはいかがでしょうか。よく考えてみると人は自分の立ち居地からしか物事を見ていない、自分の視点でしか考えていないことに気がつくのではないでしょうか。このように自己中心は生まれながらの古い人間の最大の特徴と言えます。

佐竹明先生は2節の「自己中心」を「利己中心」とあえて訳しておられます。これは良い訳だと私は思いました。自我と自己と利己のことばの違いを整理しておくことは助けになると思います。

ユング心理学では、人の心を意識と無意識の世界に分け、意識の世界の中心を「自我」と呼び、無意識の世界をもを包含した自分の全存在の中心を「自己」と呼びます。そして人からコントロ−ルされることなく主体的に自己選択・自己決定ができる人を「心の健康な人」と呼び、自分をありのまま生きることを「自己実現」と言います。ですから「自己主義」は悪いことばではありません。問題は「利己主義」です。利己主義とは自分を中心にして自分の利益しか考えられない身勝手な考えや生きかたを指します。「利己」と「自己」の区別がはっきりしたでしょうか。利己主義の固まりとなり、神様への意識的な反発や反抗を繰り返して神様に背き逆らうことを罪(的外れ)と聖書は呼んでいます。利己主義であれ自己主義であれ、自分中心になって神中心の生活ができないならば、おごり高ぶりの罪を犯しているのです。心の王座にキリストではなく自分自身が居座っている状態を、「肉の人」「未成熟な人」と聖書は指摘しています。

さて、次は虚栄に焦点をあてましょう。「虚栄心」とは、「実態がないのに見せ掛けを誇ること」と定義することができます。外側ばかりを飾り立て自分の優位さを自慢しようとする態度をさします。中味のない見せかけだけの生きかたを「虚栄」といいます。外面だけよくて中味がないような人を、私が学生時代には「ピ−マン」とあだ名したものです。殻は大きくても中には小さな種がわずかしかなく、ほとんだ内部がスカスカの状態だからです。

虚栄心が強い人はなかなか本心を見せません。中味がないことを見透かされてしまうことが恐いからです。ですから話をしていてもその人自身がなかなかつかめない、わからない、触れることができない、近づけない、距離感を感じてしまうなど、心のつながりをたいへんもちにくく感じます。ですから真の連帯感を分かち合えないのです。虚栄や虚勢で身を固めて生きるような生き方は孤独でさびしいものだと思います。エリコ一番の大金持ちでしたが人々からは「罪人」呼ばわりされて嫌われ、孤独な晩年をすごしていた取税人のザアカイなどはその典型例といえると思います。

2 キリストにある新しい人間の特徴は「へりくだり」(謙遜)です

パウロは謙遜についてわかりやすく「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」と説明しています。

「相手をすぐれたものとする」というのは、自分を蔑み卑下することではありません。 「あの人は頭も賢いし、顔もきれいだし、料理も上手だし。それに比べてこの私は、今ひとつだし、なんにもいいところがないし・・」などと、他人と自分を比較して自己卑下することではありません。真の意味で謙遜な人は自己を卑下したり、自分を否定することをいたしません。自分を肯定的建設的に認めることができるからです。反対に自分を肯定的に受け入れ認めることができない人は、他人もちゃんと受け入れ認めることができない傾向が強くあらわれます。ですから「互いに相手を優れたものとする」ことができないのです。そもそも人と自分を比較して優れているとか劣っているとかと価値判断をする態度を聖書はまったく教えていません。なぜなら聖書は「優劣の価値観」ではなく「恵みと賜物」を土台におくからです。神様から贈られた賜物に優劣の判断を誰もつけることはできません。与えられた賜物に応じてすなおに生きることが最も価値ある生きかたとなるからです。

パウロが語る大切な強調点は「互いに」ということばにあると私は思います。互いに相手を尊重し信頼しあうことを「相互尊重」「相互敬愛」「相互信頼」と言いますが、ここには対等な関係・パ−トナ−シップが見られます。生まれながらの肉なる性質は権力や権威に基づいた上下関係を築こうとする傾向があります。しかし神の恵みに生きる人々は、対等なパートナ−関係を築きお互いを尊重することを愛します。

3 キリストに学ぶ

どうしたら実際に「謙遜」は身につくのでしょうか。そもそも謙遜や謙譲は教えられて身につくものでしょうか? パウロはこのような心構えは「キリストのうちに見られるもの」(5)ですから、キリストから学びなさい、キリストの生き様から学びなさいと教えています。もっと単調直入に言えば「ご自分を無にして仕える姿をとり、十字架の死にまでも神に従われたキリストご自身に習え」(7-8)と教えています。

「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」(5) 5節を文語訳では「キリストのこころを心とせよ」と訳しています。単に模範とせよという教えではなく、「キリストがそのように生きられた。そのキリストの御霊があなたがたの中には与えられているのだからあなたがたもそのように生きることができる、あるいはそのように生きるように招かれている」というニュアンスになります。それは単に「模範とせよ」という以上の深みを持っています。

聖書のメッセ−ジは「ああしろ、こうしろ」と聴く者たちを戒律的に追い込んで「ふ-ふ言いながら実行させる」ことや「できない自分を嘆かせる」ようなことを目的とはしていません。 「キリストはそうされました。そしてキリストの御霊があなたがたの中にもあります。ですからあなたがたもきっとそうできるんだよ。自分の力や頑張りに寄り頼むのではなく、キリストにより頼べばきっとそうできるんだよ。」と、私たちを励まし行動へと促し続けてくださるのです。「キリストはそのようにされました。そしてあなたが願うならば、あなたもそのようにできるのです。キリストの霊があなたの中にあるのですから」という励ましが聖書からのメッセ−ジの目的です。

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは
神であって、それは神のよしとされるところだからである」(ピリピ
213

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
(ピリピ
413

キリストが私たちにもたらしてくださった「生き方」それは集約すれば「神の前に僕となって仕える」姿でした。真の謙遜とは「僕として仕える」ことにあります。しかも自ら進んで選び取った自発的で主体的なしもべの道であり、強いられたものでは決してありません。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ26-7

なにより、キリストは父の御心を知り、神の御子としての栄光をかなぐり捨てて、人となってこの世界に来られました。キリストはこの世の貧しい者、病める者、罪人と呼ばれている者を愛して友となって共に歩んでくださいました。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ217

キリストはお弟子たちを最後まで愛され、王の王であるにもかわらず彼らにしもべとして仕えました。
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ1314-15

キリストは十字架の死に至るまで父の御心に従順に歩まれました。ゲッセマネの園で最後の夜にイエス様がささげられた祈りは「父なる神のみこころがなるように」とのしもべの祈りでした。
「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、
なさってください。」(マルコ
1436

イエス様は天の栄光を捨てて人としてこの世に来られ、十字架の死に至るまで父なる神様の御心に従われました。このように神のしもべとしての生涯を歩まれたイエス様は、私たちが「利己中心」「虚栄」「見せ掛けの謙遜」で身を着飾り、傲慢になり、しもべではなく王になろうとしているならばそれを喜ばれません。そのような肉のわざを祝福されません。不信仰は未信者の罪ですが、霊的な傲慢さはクリスチャンの罪です。波多野鶴吉さんが証しされたように、社会的な地位が高くあってもしもべとして歩まれたすがたのなかにこそ、神様の栄光が輝くのです。

あなたはいつしか王の道を歩んでいませんか。イエス様のようにしもべの道を選び取っているでしょうか。しもべであるとしてもあなたは誰に仕えるしもべでしょうか。自分自身に仕えていませんか。神とあなたの主であるキリストと教会に仕えているでしょうか。神様があなたを遣わされたあなたの家族に仕えているでしょうか。難しい人もまわりにいるかもしれません。しかしあなただからできると信じて神様はあなたをしもべとして遣わしてくださいました。あなたはイエス様とともにいるのです。

もし愛が必要ならイエス様は与えて下さいます。もし忍耐が必要ならイエス様は与えてくださいます。もし寛容さが必要ならイエス様は与えて下さいます。赦す心が必要ならイエス様は7度を70倍するほど豊かに与えて下さいます。

        イエス様があなたを祝福してくださいますように。

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ413