「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、
死ぬこともまた益です。」(
ピリピ1:20-21

ピリピ人の手紙 1








昨年の自殺者数が警察庁の発表で3万3093人となり10年連続で3万人を超え、歯止めがかからない深刻な状態が続いています。10年間で県庁所在地の人口に匹敵する30万人がなくなったことになります。10万人当たり25.9人という自殺率は先進国で突出しており、30代でも28%が「本気で自殺を考えている」という意識調査が出て関係者を驚かせています。これと言った有効な対策が見出せない中で、ある研究者は「GNN」を強調しています。義理・人情・浪花節といった人と人との結びつきをもう一度回復し、一人で抱え込んで悩まないように気軽に相談したり反対に気軽に声かけをすることが防止につながるのではと提唱しているのです。私も個人的には賛同します。ひと言がその人を死の崖から引き戻すからです。
周囲の人々からのこのような働きかけの大切さと同時に、私は一人一人が「生きることの意味や意義」「人生の目的や使命」さらに「自分の存在価値の尊さ」をじっくりと自己吟味し再確認することがさらに大切であり有効であると思っています。移り変わり行く状況に流されず、人の言葉に惑わされず、永遠に変わることのない神様と向き合い「私にとって生きることは?」と祈りつつ、神様と語り合う中に、「そうだ!」と心が感動する答えを見出してゆくことができる「信仰の道」をお勧めしたいと願っています。

1 キリストの栄光が現される(20

パウロは今、ロ−マの獄中で囚われの身となり、死刑判決が下る日を待ちながら生きています。 そのような厳しい境遇の中にあっても、パウロは「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」を切望しています。

パウロの願いは、獄中生活を続けるにしてもあるいは死刑に処せられようとも、生きるにしても死ぬにしても、最後まで「使徒」としての務めを全うすることによって、「キリストのすばらしさ(栄光)」が現わされることでした。パウロにとって「恥」とは、何か大きな失敗をしたり、人から後ろ指を指されるようなことをしてしまうことではなく、神のことばを語るという使徒としての恵みから落ちることを意味していました。囚人として投獄されることも処刑されることもパウロにとって少しも恥辱ではありませんでした。「時が良くても悪くてもみことばを語りなさい」(2テモテ42)と若き後継者テモテを指導したパウロにとって、福音を宣教しないことこそが恥でした。私たちはしばしば「福音を語れない」いろいろな理由を述べて自己弁護しますが、本当の問題は「福音を語ろうとしない」自分自身にあることを悔い改めなければならないと思います。

さて、注目したいことは、パウロは自分を通してキリストの栄光を「現す」などとたいそれたことは語っていない点です。私たちはしばしば、頑張って、何か大きなことを企画して、キリストの栄光を現そうと力みすぎてしまうことがあるのではないでしょうか。そもそも人が神の栄光を現すようなことができるのでしょうか? 「現される」という受身の表現からわかるように、パウロにとっていつでも主語はキリストであり、キリストがご自身の栄光を現すことを願っていました。「私は罪人のかしらです」(1テモテ115)と自覚しているパウロは、キリストがご自身のすばらしさ(栄光)を「私を通して現してくださるならば」こんな名誉なことはない、喜びはないと心のそこから思っていました。パウロは自分はキリストの手の中の道具でありキリストが御霊とともに自由に働かれる水路にすぎないと自覚していました。ここにキリスト者としてのパウロの自己理解を見る思いがします。

2 わたしにとって生きることはキリスト(21

さらにパウロは「私にとっては、生きることはキリスト」と言い切っています。これはどのような意味なのでしょうか。たとえば「私はキリスト抜きではもはや生きられない」「キリストぬきでは私は人生を考えられない」「キリストが私の人生のすべてです」「私の人生でキリストにまさる宝は何もない」「イエス様がいればそれで十分です、誰も何も他にはいりません」といったキリストの存在価値の大きさの表現と理解することもできます。あるいは、「私の人生の目的はキリストのために生きることです」「キリストに仕えることが私の人生のすべてです」といったキリストへの献身と奉仕が人生の目的であるという表現にもとることができます。あるいは、「キリストは私の主です」「私の生活の第1のお方はキリストです」「キリストの御心に従うことが私の人生そのものです」といったキリストとの関係性の表現ともとれます。もっと単純に「いつもイエス様のことでもう私の頭の中は一杯です」「私の心はイエス様への感謝で満ちています」「イエス様の愛が私の生きる力です」といった感情的な喜びの表現ともとれます。

著名な学者は「キリストが私に代わって生きること」と説明しています。これに近い表現として、パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ220)と、新生の喜びとキリストの命との一体感を語っています。私はパウロのことばの中にはこれらすべてのことが含まれていると思っています。

「私にとって生きることはキリストです」このことばは教理というよりは、パウロの信仰の告白であり信仰の宣言だと私は考えています。そしてクリスチャンである私たち一人一人も自分の口で、自分のことばで、自分の感動を大事にしながら、「信仰の宣言」としてキリストを証しすることが大事であると思っています。

私個人について考えると、「私にとって生きることはキリストです」とパウロのように言い切れない自分を正直感じます。パウロのことばではあるが、どうも私のことばではないように思うからです。しかし、私は、イエス様のために生涯をささげて生きてゆきたいと心から願っています。これは偽らざる素直な気持ですから、私は「生きてゆきたい」という願望でなく、「生きていきます」という宣言にかえてはっきり語ることもできます。キリストが十字架の完全な愛を私に示してくださったことを知った若い日の感動が今も息づいているからです。私のために十字架にかかりいのちまでも投げ出してくださったお方をどうして私が忘れることができるでしょうか。どうしてそのお方と無関係な人生を歩むことができるでしょうか。私にとって生きることはやはりキリストなのです。そんな人生へとキリストの愛が私を招き入れてくださったのです。

あなたは何のために、そして誰のために生きているのでしょうか。あなたは何を求めて、誰に認めてもらいたくて生きているのでしょうか。自分のため?、家族のため?、お金のため?、仕事のため?、生活のため?、プライドのため?、それともそんなことは1度も考えたこともないまま生きてきたのでしょうか・・。

メタボリックの患者さんに保健指導をしようとした保健師さんに対して、患者さんが「いや、どうせいつか死ぬのですから、好きなことをして、好きな焼肉を腹一杯毎日食べて、太く短く生きればそれでいいんです」と言い切るのでたいへん困ったそうです。困った保健師さんは知恵を働かせて「その大好きな焼肉を毎日ずっと食べられるためにどんなことがだいじでしょうね?」と聞くと、彼は「やっぱり健康であることでしょうね」と答えたそうです。そういえば、私は徳利の形をしたお墓を始めて見てたいへん驚いたことがありました。彼の人生はお酒がすべてだったのでしょうか。世の中には私にとって生きることは焼肉、生きることはお酒という人も確かにいることでしょう。しかし、あなたはそのような生き方で満足なのでしょうか。

いのちを自ら絶った人々が「私にとって生きることは」の答えをもっておられたら、違う選択をし、違う道を歩みだしておられたのではないかと私の心に無念さが残ります。

3 死ぬこともまた益(21

パウロは私にとって死ぬこともまた益といっています。獄中生活はさすがにつらいのでここまできたらもう十分なので天国へ早く行きたいなどと考えているわけではありません。時々、クリスチャンの中に「はやく天国へ行きたい」と言われる方がおられます。でもその方が病気になると「先生、早く病気が治るようにお祈りしてください」と癒しを熱心に求めてこられます。「はい、一日も早く回復して元気になるようにお祈りしましょうね」と声をかけるとにっこりされています。誰も死にたいとは思わないのです。少しでも生きていたいと願っています。だだ直面しているつらさや厳しさあるいは痛みから逃れたいという願いが「死にたい」いう表現に、正確には「死んだほうが楽と思うほどつらい」という表現になっているのだと思います。

パウロは死ぬことも自分にとっては益ですといっています。死ぬことが益と思うのは、「キリストと永遠にいることができるから」「キリストにあって永遠のいのちが完全に実現するから」という信仰と希望に裏打ちされているからです。キリストの復活によって「死は勝利に飲まれてしまった」(1コリント1555)のです。罪はキリストの十字架の血によってことごとく「清められてしまった」(1ヨハネ19)のです。ですからそこには死に対する不安や怖れはありません。死んだらいったいどこへゆくのだろう、肉体の死の先には何が待っているのだろうといった生と死の間に横たわる深い闇や超えがたい断絶はもはや存在しません。死は終りではないのです。キリストにある新しい永遠の人生の始まりなのです。すべてのクリスチャンにとって肉体の死を迎えることはそのまま終末における神の国の完成を待ち望むことと同じなどです。闇と絶望と終焉に向う歩みではなく、光と希望に向う新たな歩みなのです。

しかも、神の国からくるこの希望は今、与えられている人生をしっかりと信仰と愛をもって豊かに生き抜いてゆこうとする確かな喜びをもたらします。生きることはキリストという実感を豊かにもたらすのです。

4 肉において生きる(22

さてパウロは自分の中に起きている葛藤について率直に語ります。切なる願いとしてはキリストのもとに行くことだが、ロ−マの獄中で肉体をもってなお留まることがピリピの教会にとってすこしでもお役に立つことであるならばそれも意味があり、正直なところ、板ばさみとなって悩んでいると語っています。

一日も早く救いが完成されることを選ぶか、遅れることを承知の上でなお使徒として働きに従事することを選ぶか、その2者択一を求められているというのです。

パウロの個人的な「切望」(23)は、キリストとともにいることです。しかし、最終的にパウロは自分の「切望」よりは、「必要」(24)のゆえに「あなた方とともにいる」ことを選んだと記しています。そしてその選択は神のみこころにかなうことであると確信しています。いいかえればパウロは自分の切望(23)を満たすことよりも、神の必要(24)を満たすことを選び取ったのでした。パウロにとって肉体を持って生きること、つまりこの地上で生きるということは、神様が願っておられることを知り、御心に奉仕していくことそのものでした。

あなたは自分の願いを満たしていただくように祈っていますか? それとも神様が必要とされていることを満たしてゆくために仕えてゆこうと祈っていますか?

パウロは「あなたがたの信仰の成長と喜び」(25)のために留まる必要があると書いています。成長と訳されたことばは「前進」とも訳されます。信仰は、成長してゆくことが求められます(2コリント1015)。信徒は愛において互いに豊かに結び合わされながら教会を形成し、その目的を成就するために「愛の御霊」がすべてを導いてゆきます。一方、教会の福音宣教も神の御心の中でたえず前進して行くことが求められています。たとえパウロが投獄されても福音は停滞することがありません。もしパウロが釈放されて自由に宣教できればロ−マの街中に宣教は拡大し、やがて地の果てスペインまで広がることでしょう。たとえ投獄され続けてもおよそ1万人もいるとされる近衛兵の一団に宣教することによって、福音は貴族階級・皇族一族にまで広がることでしょう。このように「神のことばは決してつながれることはない」のです。福音の前進のために生きるかぎり仕えてゆこうとパウロは願いました。そしてたとえ獄中であっても決して奪われない大きな喜びがそこには伴いました。どんな状況下にあっても、希望をもって神様の御心の中をさらに1歩進みだしてゆきましょう。
          「望みを抱いて喜び」(ロ−マ
1212)つつ。

ps 

本日、礼拝後に、槇島の市街地調整区域に、「63坪、重量鉄骨3階建て、2000万円」の工場跡が売りに出されているチラシを見せていただき見学に行きました。物件はすでに売却されていましたが、売主さんが丁度、家族で掃除をされていましたので内部を案内してくださいました。私たちが土地や建物を探していることを知って、地元の方なので良い情報をいろいろ提供してくださいました。古くからの地元の方でしたが、私たちに対してもたいへん好意的に接してくださり名刺まで預かってくださり感謝でした。