ピリピ人の手紙 1


「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、
義の栄冠が私のために用意されているだけです。」
(2テモテ4:7−8)

「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、
信仰を守りとおした。」(口語訳)














今日は宇治バプテスト教会の信徒さんや関係者の方で天国へ帰られた方々の年に1度の記念礼拝をささげます。5組のご遺族が礼拝に出席をしてくださっています。先ほど召天者名簿を読み上げましたが、天国に帰ってゆかれた方々の数も今年で23名となりました。天に召された方々もあり、一方、新しくバプテスマを受けて神の家族の一員になられた方々もあり、教会は病院のように生と死のドラマの中に存在しています。今、41名の教会員がいますが、半数以上にあたる数の方々がすでに天に帰られキリストと共に安らぎに満ちた永遠の生活をすごしておられることになります。天国にある宇治バプテスト教会村もにぎやかになってきました。私たちは葬儀告別式に際して「さようなら」と涙の別れのことばを交わしますが、天国では「いらっしゃい、待ってましたよ」「おひさしぶりです」と歓迎の喜びの声が交わされていることでしょう。イエスキリストにあって眠った人々は決して「死んでしまった人々」ではありません。永遠のいのちに生きておられます。どこに行ったのか行方不明の方々でもありません。ましてやあの世とこの世で迷っている人々でもありません。考えればこの世界であれこれ、うろうろ迷っているのはむしろ私たちのほうかもしれません。

「我らの国籍は天にある」(ピリピ3:20)と聖書はすべてのクリスチャンが天国に永遠の国籍をもっていることをはっきりと明示しています。国籍を有している者はその国に住む権利を有しています。ことばをかえれば、天国への入国あるいは帰国といってもいいかもしれませんが、そのための正規の「パスポ−ト」を所持していることを意味しているといえます。

今朝、この礼拝に出席された皆様に、ぜひお勧めしたいことがあります。まことの天の父なる神様に背を向けて生きている「親不幸」な生き方にピリオドを打ち、過去の罪を悔い改めてイエスキリストを救い主として信じ、キリストの名によってバプテスマを受け、神の子とされ、正式なパスポ−トを取得していただきたいのです。パスポ−トをもっていなければ天国へ入ることはできません。偽のパスポ−トでは全く通用しません。親がクリスチャンだからといって自動的に天国へ入れるわけではありません。自分自身の「信仰」を通して個人的な救いを受けることによって、はじめて自分名義のパスポ−トを持たせて頂くことができるのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
(ヨハネ6:47)

さて、パウロは「私は走るべき道のりを走り終えた。義の冠が私を待っている」(2テモテ4:6−7)と語っています。パウロはロ−マの獄中で死刑囚として刑が執行される日を静かに待つ身でしたが、

第1に、満ち足りた満足感、充実感、幸福感がパウロの心には満ちています。それは神様が召してくださった道、神様が用意された道を走り抜いたことからくる充実感です。走り方は問題ではないと私は思います。走っても歩いても立ち止まってまた歩き出してもかまいません。パウロのように「りっぱに戦い抜く」(口語訳)ことができず、よちよち歩き、ヨタヨタ歩きでも構いません。大切なことは神様が用意してくださったさ信仰の道を歩み通したことに大きな意味があると思います。

神様が用意されたひとつの道とは、「天国にまでいたる信仰の道」をさします。イエスキリストを信じ、イエス様に仕えながら生きる奉仕の道を指します。神様に仕えると言う場合、牧師や宣教師になることが全てではありません、ビジネスの世界で神に仕える人、医学の分野で医療や介護に仕える人、教育や福祉に情熱を燃やす人、そして子育てという最も大きな仕事をになっている主婦の人、すべてのクリスチャンが信仰の道を歩みながらそれぞれの賜物に応じて神と人とこの世界に仕える奉仕の道を歩んでいるのです。

この世の中で自分が生きたいように生きられるという賜物や才能に恵まれ、経済的な環境が整えられている人は決して多くはいません。多くの人は自分の願っていたように、思い描いていたようには生きられない厳しい現実と向き合って生きています。むしろ「アレもしたかったコレもしたかった、何もできなかった」と嘆き「できなかったのはあのヒトのせいだ。このヒトが悪いからだ」とつぶやいてしまうことのほうが多いかもしれません。自分の死を間近にして自分の一生を振り返って見たとき、私たちはどのように自分の人生を「総括」できるでしょうか。「私は自分の人生を悔いなく生きることができた。後悔はない。振り返れば感謝な人生だった」と言えたなら、その人は幸福な人生を歩んだと言えると思います。そしてそのような幸福感は、神様が用意してくださった道、信仰と奉仕の道を「全うする」生涯の中に隠されているのです。自分の道ではなく、神様がご用意してくださった「信仰の道」を歩かせていただきましょう。

第2に、パウロは永遠に価値あるものをしっかり見つめていました

私を待っているのは、神様が授けてくださる「義の冠」だと彼は語っています。神の栄冠(ピリ3:14)、ほこりの冠(1テサ2:19)、朽ちない冠(1コリ9:25)、誉れの冠(ヘブ2:9)、いのちの冠(ヤコ1:12)、義の冠(ピリピ4:7)、金の冠(黙4:4)と天国では7種類の冠が用意されています。いずれかの冠をクリスチャンは天国でかぶらせていただくことができます。無冠の人はひとりもいません。いずれの冠であっても7つの冠は永遠に価値あるものです。

私たちは何かで成功し、富を得、人々から賞讃され、感嘆され、うらやましがられるというようなこの世の「冠」と呼べるようなものを何ももっていないお互いであるかもしれません。人間的になにも誇るものがない平凡な人生を歩んでいるといえるかもしれません。しかし、自分を飾るようなものが何もなくても、無冠のままであってもそれはすこしも悲しいことでも落胆することでもありません。イエス様でさえこの地上で頭にかぶられたのは、金や銀や宝石で飾られたこの世の冠ではなく、大きなとげのある茨で編んだ「茨の冠」だったではありませんか。キリストと共に生きる者はキリストとともに自分の十字架を背負って歩きます。十字架の道はけっしてこの世的な成功の道、人から崇め賞讃される道、富を築く道、人の上に立って権威をふるう道ではありません。しもべとなって労苦と犠牲を喜んで神様にささげながら仕えてゆく無冠の道です。

この地上ではなく、天国で授けられる冠、それこそ私たちの人生にとって最高に価値あるものです。

神様によって自分が導かれた道を、召された道を、備えられた道を、信仰の道を、奉仕の道を歩んでゆきましょう。永遠の神の国に移されるその時まで。

とりわけ天に召された23名の人々の中には、病との厳しくたいへんつらい戦いを走り抜かれた方々もおられます。長い病床生活にあって信仰の道を歩み通された方々もおられます。聖書は試練の中にあっても信仰をまっとうしたクリスチャンにこのような神様のすばらしい約束を伝えています。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

このことばをもって今年の「召天者記念礼拝」のメッセ−ジを結ばせていただきたいと思います。