ピリピ人の手紙 1


何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」
(ピリピ41-4










新卒新入社員たちは会社に入ると、3つのことを教えられます。挨拶をちゃんとすること、「ほうれんそう」をちゃんとすること、言葉使いをちゃんとすること。ほうれんそうとは報告・連絡・相談を密にすることです。挨拶や言葉使いを正しくし、報告連絡相談をきちんとすることは大人としての社会的なマナ−であり、社会人生活の基礎と言えます。

さて、今日の聖書箇所から「祈りの基礎」を学びたいと思います。祈りはクリスチャンライフの生命線とも言われ、クリスチャンとしての生活を豊かにもしまた貧しくもする大切なテ−マです。

祈りの基礎の第1は、「思い煩わない」ことです。
「何事も思い煩ってはならない。」(6)

思い煩うなとパウロは命じています。思い煩うとは問題や困りごとや試練に直面してあれこれと思い悩み、心配し、心の安らぎを失い、心を乱してしまうことを指します。私たちは家庭や職場や学校や地域社会においても毎日が思い煩い悩むことの連続と言ってもいいかも知れません。

問題に直面して悩むとき、実は大きく2つの解決方法があると思います。「悩み続ける」か「神様に祈る」かの2つです。そして、祈るためには、まず悩み続けることをやめなければなりません。一緒に両方をすることは無理なのです。それはみそ汁とコ−ヒを一緒に飲むようなものです。悩みながら祈ると祈りが祈りでなくなって、ごちゃごちゃのまぜご飯のような祈りになってしまいます。

悩みには困ったひとつの特質があって、悩みは悩む時間があればあるほど悩み続けようとします。どこかで誰かにストップをかけられるまで悩み続けます。ある精神科医が「ストレス対策10箇条」を提唱していますがその中に「夜は悩まない」とあります。たいへん意味深いことばです。寝静まった静かな夜、ひとりでぽつんといたら、悩むこと以外にすることがないわけですからどっぷり悩んで時間をつぶそうとします。疲れた頭で物事を考えても良い考えなどが浮かぶはずがありません。ですから、思い煩いつづけようとしている自分に「ストップ」と声をしっかりかけるのです。パウロの命令だ!「思い煩い続けるな!」と自分で自分に命じてみましょう。

思い煩い続けることをやめるとき、はじめて「祈る」体制を取ることができます。祈りはクリスチャンにとって偉大な力の源泉です。なぜなら私たちは祈りを通して、全能なる神が共におられる事実を再確認できるからです。私たちの後ろに控えておられる全能者なる神様、永遠の愛をもって信じる者を守り導かれる愛の神様の存在をしっかりと認めることができ、その神様に信頼し委ねることができるから安心できるのです。安心して任せることができる神様がおられるから心配いらないのです。

ところがまことの神様を知らない人々に「思い煩うな」といっても無理な注文だと思います。なぜなら神様を知らなければあとは自分を頼ることしか残っていないからです。ところがその自分自身が無力無能となって立ち往生してしまっているわけですからどうにもなりません。

祈るということは、祈りを通して良い解決方法を求めることではなく、祈りを通して真の解決者である全能なる神様の存在をしっかりと確認させていただくことなのです。真の安心は神様からきます。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ロ−マ8:31)

祈りの基礎の第2は、神様に感謝することです。
「ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ」(6)

祈りが祈りであり、願いが願いであるには、「感謝」が必要です。感謝のない祈りは祈りではありません。同様に、感謝のない願いは願いではありません。祈りと言いながら神様への愚痴や不満をこぼしたり、神様への一方的な要求を突きつけたりしてはいないでしょうか。ちなみに妻が夫に「ちょっとお願いがあるんだけれど聞いてくれる」といいながら、「ああしてほしいこうしてほしい」と言い始めたらどうでしょう。夫が妻の願いをすなおに聞くことに抵抗を覚えるのではと思います。最初に何よりも「いつもありがとう。感謝します」と夫に感謝のことばを伝えることが先決だと思います。

これは夫から妻へも、子供から両親に対しても、親から子供に対しても同じだと思います。つまり感謝することを忘れてはどんなコミュニケ−ションも成り立たないのです。祈りは感謝からいつも始まります。始まりはいつも感謝からです。

パウロは異邦人の特徴を端的にこう表現しています。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ロ−マ1:21)さらに、パウロは罪のリストをあげていますが、その中には「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者」(2テモテ3:2)と明確に記し、感謝しない者を罪人に数えあげています。

イエス様は5000人の人々にパンと魚を分け与えられるときには「パンをとり感謝をささげてから分けられた」(ヨハネ6:11)と記されています。聖餐式を定められた時にも「杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。」(ルカ22:17)と記されています。ラザラを復活させた時にも「イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。」(ヨハネ1141)と語っておられます。イエス様の祈りはいつも父なる神様への感謝から始まりました。イエス様が奇跡を起こされる前、イエス様は必ず感謝と祈りを一つにされました。感謝のこころを私たちは忘れてはいないでしょうか。

「良いことがまだ起きていないのに何を感謝するというのですか」、「何か良いことがあったから感謝するというのが普通じゃないでしょうか」そんな思いが当然ながらわいてきますね。自然の感覚だと思います。ところが、イエス様がラザロをよみがえらせる前にイエス様はこのように祈られました。「父よ、私の願いを聞いてくださったことを感謝します」(ヨハネ1141)と。イエス様はすでに祈りがかなえられたと確信して祈っておられます。だから、良いことがまだ何も起こっていなくてもいつでも感謝できるのです。父なる神様がもう聞いてくださった、かならずその祈りは実現すると信じているのですからいつでも「感謝」できるのです。

イエス様の一番そばにいつもいたお弟子のヨハネはイエス様の祈りを聞き、心に留めていました。ですから後に自分の弟子たちに祈りについてこのように指導しています。「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(1ヨハネ5:15)

すでにかなえられたと信じる祈りは「上級編」かもしれません。いつかまた学びましょう。今日は祈りの基礎の学びですから、感謝を忘れた祈りは祈りとはいえないこと、祈りはまず感謝から始まることを心に留めて頂きたいと思います。父なる愛の神様に感謝すること、あなたを支えてくれている周囲の人々に感謝すること、最後に自分自身に感謝することを忘れないようにしましょう。

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」(コロサイ4:2)
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに
望んでおられることです。」(1テサロニケ
5:18

祈りの基礎の第3は、神様に知っていただくことです。

「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(6)

新改訳聖書以外の聖書では「あなたがたの求めるところを神に申し上げる」(口語)、「求めているものを神に打ち明けなさい。」(新共同訳)。英語聖書では、願い事は複数形になっており、「あなたがたの必要なこと」とも訳されています。

神様に申し上げるとは神様にそのまま報告することを意味します。祈りの基礎とは、祈りや願いを通して、「まずありのままを神様に申し上げること、報告すること」と言えます。ちなみに新入社員の場合、お客さんとの難しい問題を自分ひとりで解決ができません。そこでは上司にありのままを正確に報告し上司の判断を仰ぐことが真っ先に求められます。経験の乏しい自分の判断や解釈を控えて、まず事実関係を上司に正確に迅速に報告することが新入社員には求められます。

神様に対して「神様、今、こんな状況にあります。こんな必要性が生じてきています。どのように対処したら神様のみこころにかなうでしょうか。ご判断下さい。そしてご指示ください」と申し上げることが祈りの基礎です。

この世では、だめな上司は部下から判断を求められても「おれはしらね」と逃げるか、「良きにはからえ」と丸投げするか、「自分で考えろ」と責任転換しがちです。しかし神様は私たちを愛し省み、最善を尽くしてくださるお方ですから、祈るものに対して適切に判断し指示してくださいます。愛の神様が「おれしらねぇ」と拒んだり、「好きにしたら」と丸投げしたり、「自分で考えろ」と突き放されるようなことはありません。

職場での話しに戻りますが、部下が上司に報告相談をした場合、その上司が直接動き始めることもありますが、多くの場合は判断や指示を上司が与え、実際の行動は部下が行うケ−スが多いと思います。天の父なる神様は、私たちの祈りを聞いて直接行動を取って下さることもあれば、神の御心を示し、私たちの行動を導かれることも決して少なくありません。ですから、神様が直接行動を起こしてくださることだけを期待していてはなりません。むしろ神様の御心を知らせていただくことを待ち望み、神様の導きを頂いたら素直な心で「はい」とお従いする「献身」のこころが大事なのです。

新共同の「神にうち明けなさい」というのも良い訳だと思います。うち明けられなくてひとりで抱え込んでしまい、かえって悩みを深めてしまう場合も多いからです。神様に「報告をし」「うち明ける」とき、そこでは何が起きるでしょうか。「神の平安がこころを満たす」のです。思い煩っている時には、心配、恐れ、不安、とまどい、焦り、無力感、失意、ときには怒りや恨みが複雑に混じり合って終始がつかない状態に陥っているといえます。しかし、人知を越えた神の平安が心を満たすというのです。ここでは、神様からの平安が祈りの答えであり、神様からのプレゼントなのです。

牧師は教会の内外の人々から相談を良く受けます。牧師がその時に果たす役割はアドバイスを与えることではなく、傾聴態度をもってお話しを聞き、「相手が心の中にひとりでずっと抱え込んできたものをうち明けてゆく」ことをサポ−トすることが最初の仕事だと思っています。誰かにうち明けただけでどうして解決になるのですかと思う方がいるかもしれませんが、神様にうち明けるとき、神様にご報告するとき、いいかえれば神様に祈るとき、人知を越えた神の平安がその人の心と思いを包むことを私は何度も見てきました。悩み思い煩う人の心(感情)と思い(認知)が平安に包まれるのですから、そこからどんなすばらしいことが続いて起こることでしょうか。心が平安で満たされ、思いが落ち着きをとりもどせば、多くはその人の個性にふさわしい解決方法や手段のありかたを自分で見いだされてゆくものです。指示され命令されるような解決策よりは、その人の中から生まれくる解決策が何よりも力を持っています。祈りは心と思いへの平安が答えであることを今朝のメッセ−ジとして受け取らせていただきましょう。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)