ピリピ人の手紙 1


「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者 に気をつけてください。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なもの
を頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ32-3











外見や「ぱっと」見た目からくる第一印象はとても大事だと一般的に言われています。竹内一郎の新書「人は見た目が9割」という本が2005年の発売以来売れ続け100万部を突破したそうです。竹内さんは、言葉以外のすべてのコミュニケ−ションの重要性をこの本を通して紹介しています。たとえば声の調子やキー、顔の表情、しぐさや立ち振る舞いや姿勢、身だしなみや服装、色やファッションセンスや持ち物といった目に見えるすべてのコミュニケーションを総称して「見た目」といったわけですが、多くの人が「中身よりは見かけが大事」と誤解してしまったようです。ちなみに面接試験では候補者が入室してから第1声を発するまでのわずかの間に約47.7%の試験管がその人に対する第一印象を決めてしまうそうですから、「中身よりも見た目」の占める割合や影響力が確かに大きいといえます。いいかえれば人は見た目でごまかされやすいということにもなります。たとえばお土産屋さんに行けば「見た目が9割」という商品がはびこっています。上げ底の箱や大きな空箱の包装や一番上側のクッキ−にはピ−ナッツがいっぱいまぶしてあるのに2枚目からはほとんど入ってないとか・・。

「見た目9割理論」はごまかしのきく短期決戦や一元さん相手には通用するかもしれませんが、信頼を重んじる長期的な関係においては、おいおい化けの皮がはがれてしまうことでしょう。真実や品質や実績がやはり信頼を勝ち取ります。竹内さんの言葉でいえば、見た目ではない残りの1割、つまり「言葉によるコミュニケ−ション」(約7%)を通して、自分の考えや自分の気持ちをしっかりと相手に伝え、ことばを通して互いを理解することが大切になってきます。

1 偽ものに気をつけなさい

「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。」(ピリピ31

3章に入りますと、パウロの口調がたいへん厳しくなります。パウロはいつも愛をもって言葉を語りました。ただし、キリストの教えに反する偽りの教えに対しては容赦なく非難しました。偽りごとに関しては厳しく糾弾し、敵対者を「犬」(野良犬)と呼び、「悪い働き人」とさえ叱責しています。

一体誰に対してこのような手厳しい言葉を語っているかといいますと、「肉体だけの割礼の者」と呼ばれている当時のユダヤ教戒律主義者たちに対してでした。ユダヤ教戒律主義者とは、人が救われる為には旧約聖書に記された「モ−セの戒律」を厳守しなければならないと固く主張する人々を指します。戒律主義者にとって最も重要な戒律は「ユダヤ人は生まれて8日目に割礼を受けなければならない」という割礼儀式の戒めでした。割礼とは男性生殖器の皮を一部切り取るというユダヤ教の古来からの伝統的儀式であり、ユダヤ人と異邦人とを外見上区別する決定的なしるしとされていました。

困ったことにユダヤ教戒律主義がピリピ教会の中にも入り込んで、「クリスチャンも旧約聖書の掟に従い、もっとも重要である割礼をうけなければならない。イエスキリストを救い主と信じる信仰だけでは不十分で、割礼を受け、すべての戒律を守らなければ不完全であり救われない」と教えはじめクリスチャンを混乱させていたのでした。パウロはこのような考えは、「十字架の救い」に敵対する者で、「その最後は滅びだ」と真っ向から対決しています。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。」(318-19

「クリスチャンは人が良くて気が優しくていつもにこにこしている」と考えている人が多くいると思います。いつもかっかかっかしているようなクリスチャンは考えものですが、さりとて、いてもいなくてもどっちでもよいような存在感の薄い空気のようなクリスチャンもどうかと思います。イエス様の救いに関して間違った教えが語られるときにはエヘラエヘラしていてはならないのです。言うべき時にははっきりという「言う気と勇気」をもたなくてはなりません。

2000年前、カルバリの丘の十字架で死なれたイエスをキリスト(罪からの救い主)と信じる信仰によって、どんな罪深い人間もそのすべての罪が赦され、神のこどもとされ、永遠のいのちを得ることができるのです。これがグッドニュ−ス・福音と呼ばれるキリスト教の中心メッセ−ジです。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。
これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ
17

福音によれば、たとえ神の子供とよばれるにはほど遠いような、不完全で、汚く、失敗だらけの、いいとこなしの人間でも、何一つ善い行いが伴っていなくても、イエスを救い主と信じる信仰によってそのまま神の子供として受け入れていただけるのです。なぜなら、イエスキリストが十字架にかかってすべての罪を背負って身代わりとなって罪の刑罰を受けて死んでくださり、全人類の罪を完全に償ってくださったからです。そして罪も死も滅びももはやキリストを信じる者を支配することができないことの完全なしるしとして、墓に葬られたキリストは3日目に死の力、滅びの力を打ち破りよみがえられたのでした。それはだれも自分の行いを誇らない為でした。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、
だれも誇ることがないためなのである。」(エペソ28-9

このように、パウロは「戒律による救い」と「キリストを信じる救い」をはっきりと区別しました。本物と偽物とを区別しました。偽物にまどわされないでください。

2 外見か中身か

さらにパウロは、本物か偽物かを正しく見分けるだけでなく、外見よりも中身を大切にすることを強調しました。
割礼という儀式的な外見上のしるしを重んじることよりも、神の御霊によって心からの礼拝をキリストにささげる内面的な真実さを重視しました。

「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ割礼の者なのです。」(ピリピ33

パウロには、外面的な宗教的儀式による礼拝よりも、神の御霊によって導かれる生きた礼拝が大事でした。割礼という目に見える伝統を誇るよりも目には見えませんが心の中に住んでくださるキリスト自身を誇るという実質を尊ぶ精神がありました。

「かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」(ロ−マ229

このような考えはすでに旧約聖書の預言者エレミヤの中に見ることができました。

「主は言われる、「見よ、このような日が来る。その日には、割礼をうけても、心に割礼をうけていないすべての人をわたしは罰する。」(エレミヤ925

大切なのは「からだの割礼」ではなく「こころの割礼」であると預言者エレミアは内的な実質を強調しました。預言者だからこそ語れる適切な指摘だと思います。少なくともパウロや旧約時代の預言者エレミヤは、外面よりは内面を非常に重視した実質派の人物でした。

外面をとりつくろうことはあまりむつかしいことではありません。極端なことを言えば、お金を投入すればいくらでもきれいに立派に装うことはできます。立派な豪邸に住むことも高級車に乗ることもブランド品の服を着ることもできます。しかし、内面を磨くこと、豊かにすること、信頼と尊敬を勝ち取ってゆくことはお金では達成できないできないことです。高級化粧品でお化粧してもそれで美人になるわけではありません。高級ブランド品のスーツを着、高級腕時計をつけてもそれだけで紳士になるわけではありません。2000年前、ペテロは当時の若い女性たちにこのように語りかけましたが、今日においてもそのまま適応できることばではないでしょうか。

「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。
これこそ、神の御前に価値あるものです」(
1ペテロ33-4

北京でオリンピックが開催され注目の開会式もたいへん趣向をこらしたすばらしいものでした。ところが世界中に配信された開会式の会場の上空をいろどる足跡型の花火の映像がコンピュ−ターの合成映像であり真実ではなかったこと。中国全土に存在する56民族を代表する子供たちがそれぞれの民族衣装を着て勢ぞろいして平和と統一をアッピ−ルした感動的な演出が真実ではなく漢民族の子どもたちがやっていたこと、美しい9歳の女子の独唱が「口ぱく」であったことなどが表面化してきています。「これぐらいのことはたいしたことではない」と広報部では問題にしていないそうですが、そういう言い訳事態がかえってそらぞらしさを覚えます。オリンピックというスポ−ツの祭典は、生身の人間が真実な力を清清堂々とごまかすことなく競い合う場であり、そのために薬物の使用が厳しく禁止され、発覚すれば選手は金メダルさえ剥奪され永久追放されます。そんなフェア精神を尊ぶオリンピックの舞台で国家規模で見せ掛けや虚偽が巧みにそして無自覚に演出されることに、「品がない」とモラルの低さを感じてしまうのは私だけでしょうか。中国国内でも識者を中心に批判が起きているそうですが、ほっとする思いがいたします。

私たちの中にも、外見、外面、見せ掛け、宣伝、虚栄、体裁がいつしかはいりこんでくる可能性があります。スタンドプレ−や見せ掛けだまし、はったり、はりぼてのようなありかたをイエス様は決して好まれませんでした。中身や内面、実質、真実、誠実、素直さ、そうしたものをどこまでも大事にしてゆく聖書の精神を育んでゆきたいものだと思います。「見た目が9割」ではなく、「残りの1割」の中に真実を見出してゆく目を養わせていただきましょう。見た目にごまかされないで、真実を求める精神を大切にさせていただきましょう。