【福音宣教】 ヤコブの手紙1:9-11 神の子とされたことを喜び誇ろう
「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい」(1:9)

20240317 

1. 先週の折居台で月一回の家庭集会が持たれました

 朝6時から夕方まで働いた労働者にも、5時から働いた労働者にも同じ1デナリの賃金が支払われたので「不公平だ、計算違いだ」と不満を訴える者のたとえ話(マタイ20:1-16)を学びました。「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエス様の結びの言葉で閉じられていますが、これは、天国の原理原則、神の国の恵みの方程式をあらわしています。慈悲深い農園主である父なる神様に招かれた者は、すべて等しく1デナリ、つまり「唯一の永遠のいのち」を受けることができるというメッセージを伝えています。そして「おい、ほんとうに良かったな、同じ1デナリをもらえて!」と肩を抱き合う仲間が、兄弟姉妹たちであり、そういう「宇治バプテスト教会でありたいね」と、楽しく分かち合うことができました。家庭集会っていいですね。 礼拝とは違う雰囲気と交わりの中でみことばを学びあえることは幸いなことです。今日の聖書箇所でも、同じような天国の方程式が語られています。

2. 低くされた者も、高くされた者も

ヤコブがエルサレム教会の指導者として活動した時代には、キリストを信じてクリスチャンになったユダヤ人もいれば、ギリシャやローマの偶像の神々を離れ、キリストを信じてクリスチャンになったギリシャ人やローマ人など異邦人と呼ばれる人々も多くいました。さらには、奴隷の立場にあるクリスチャンも多く存在していました。彼らは身分も低く当然ながら貧しい生活を強いられていました。一方では、ローマの市民権を持つ裕福な貴族階級、特権階級に属しながらキリストを信じる人々も少なくありませんでした。様々な立場の人々が共同体としての教会を形成していましたから、祈りあい、話し合って多くの課題を調節し、乗り越えていく必要があり、神の助けをいただきながら共同体として成長し続けました。

そうした中で、貧しい信仰者に対しても、富める信仰者に対しても、ヤコブは「キリストにあって神の子とされたことを誇りなさい、喜びなさい」と、大切な一つの共通点を伝えたのでした。

3. 貧しい兄弟姉妹に対して

古代社会では、戦争に負ければその住民は奴隷とされました。一度、奴隷とされれば、その身分は生涯変わりませんでした。しかし、キリストを信じた時から、霊的なアイデンティティが変わりました。地上では一生涯奴隷であっても、キリストを信じた信仰のゆえに「神の子とされ、天の御国の資産を受け継ぐキリストの相続人」とされました。だからたとえ、身分は奴隷であり、社会から差別され、さげすまれ、その生活は苦しくても、朽ちない天の資産を受け継ぐ、御国の世継ぎとしての誇りをもって自尊心をもって、私の主はキリストであると、輝いて生きよう!とヤコブは励ましているのです。

 「私たちは、今すでに神の子どもたちである」(1ヨハネ31-2)。「キリストとともに生かし、ともに天のところに座らせてくださった」(エペ25-6と。

貧しさのゆえに、心まで卑しくならず、下を見て歩くのではなく、天を見あげて、誇り高く生きようと勧めています。すべてのクリスチャンは、置かれた環境につぶされてしまう悲観主義でもなく、薄っぺらな楽観主義者でもなく、神を見あげ、天に望みをつなぐ希望主義者として、今を生きることができるのです。旧約聖書には、貧しいながらも気高い精神をもって生きた人々の言葉が記されています。私が食べ飽きて、あなたを否み、【主】とはだれだと言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:9)と。

明治時代のクリスチャンで「恩寵の生涯」を記した徳永規矩(のりかね)さんがいました。事業に失敗しそのうえ結核を患い、5人の子供を抱えて貧困のどん底生活に苦悩しました。親切な方がお米を4俵くださいましたが、その晩、すべて盗まれてしまいました。嘆き悲しむ子供たちを集めて徳永さんはこう言ったそうです。「私たちは、お米を盗まれる立場であっても、盗む立場でなかったことを感謝しよう。肉体の糧は盗まれても、霊の糧は盗まれなかったことを感謝しよう」と。そして子供たちとともに祈ったそうです。なんと気高い澄んだ信仰の心でしょうか。感謝の心の人でしょうか。

4. 富める兄弟姉妹に対して

一方、ローマの市民権さえ持つ、富める裕福な兄弟姉妹に対しては、「低くされることを誇りとせよ」とヤコブは問いかけます。「低く」とは、神の前に謙虚になり、おごり高ぶることなく、当時、大多数を占めていた貧しい奴隷階級の兄弟姉妹たち、やもめや多くの孤児たち、病気や障害をもってこの世的に置き去りにされ、忘れられたような人々と共に生きる兄弟愛・隣人愛をもつことを意味しています。

というのは、富はしばしば、神に信頼する純粋な信仰を見失わせ、富に全面的に依存させてしまうからです。それこそ「富こそわが命、わが宝、わが誇り、わがすべて」とばかり、富に執着し、その結果、神への信仰から引き離されてしまうという大きな誘惑に巻き込まれてしまったケースも少なくないからです。

聖書の世界となっている「砂漠と荒野の世界」では、雨期が終わる春先には一斉に草花が咲き乱れますが、夏が近づくと、照りつける太陽と熱風によって一挙に、花も草も枯れ果て、消滅してしまいます。一晩で全く風景が変わってしまうほどだそうです。2000年の3月、イスラエルを旅し、私も実感しました。1週間前は何もない荒地、今はお花畑。ところがやがて熱風が吹けばたちまち枯れ果て砂漠に戻ってしまうそうです。そのように、この世の富もはかなく消え去ってしまうことを改めてヤコブは警告し自覚を求めたのです。

「いつまでもあると思うな。親と金」と日本では言いいますが、預言者イザヤは「人はみな草のよう。その栄はみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと草はしおれ、花は散る」(406-7)と語り、偉大なダビデ王も「人は咲く。野の花のように。風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない」(詩103:15-17)と、世の富と富を誇る者のもろさ、はかなさを伝えています。日本でもバブルの時代、一晩にして全財産を失ってしまった人がどれほど多くいたことでしょう。

5. 天国の方程式を思い起こそう

低い者は高くされることを誇り、高い者は低くされることを誇りなさい。低くされた者と高くされた者、通常ならば分断があり対立が生まれてしまう可能性ばありますが、この両者の間にはキリストがおられます。このお方はいと高き神の御子でありながら、地にくだり、家畜小屋の中で産声をあげ、罪人や貧しい者の友となり、十字架の上で死なれました。キリストこそ最も低い者たちの隣人として歩まれました。そして死からよみがえり天に昇り、神の栄光の右の座に着座されました。彼こそ、最も高い者とされたのです。そして終わりの日に、キリストは神の国を相続するすべての御国の子らを天に招き、引き上げ、永遠のいのちへと導いてくださるのです。

それゆえ低い者もキリストと共に天にまで高くされ、高い者も謙遜と兄弟愛を学んでキリストと共に低くされ、こうしてみなキリストにあって、「神の子とされている」喜びと誇りに共に生きるのです。新しい霊的なアイデンティティをいただくのです。「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」(ガラテヤ47)。

だから低くされている者は、卑下することなく、神の相続人とされている誇りと喜びを輝かせよう。一方、高くされている者は「富をおごるのでなく神を喜び、キリストのように地に低く降りて、隣人に仕え、地上の富ではなく天に宝を積んで喜んで生きようと、ヤコブは励ますのです。

最後に、アイゼンバーグの版画を紹介したく思います。

ここには、ホームレスに対して給食を提供している光景が描かれています。寒さに凍えながら給食を受ける側の人々の姿が描かれています。さて、イエス様はどこにおられるでしょうか? 与える側それとも受ける側でしょうか。私たちの想像に反して、イエス様は低くされた者、貧しい者、病める者、忘れられた者の中におられ、文字通り彼らの隣人となって、給食を受ける側の列に加わって並んでおられる様子をこの版画は静かに伝えています。そして深く、問いかけています。 あなたはどこに並んでいるのかと。

低くされた者も高くされ、高くされた者も低くされ、イエス様と同じ目線に立ち、イエス様と同じように、「父なる神様への信頼に」生きるのです。神の子とされた誇りをもって。

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