【福音宣教】 ヤコブの手紙1:2-4 試練と忍耐 こんにちわ、試練君


「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びとしなさい」(1:2)

20240225 

イエス様の弟であり 主イエスキリストのしもべとして生涯を歩んだ ヤコブの手紙から、この朝も学びましょう。

1 苦難に会う時は喜びとしなさい

どうしてこういう難しいことを求めるのかと、ヤコブ書を読む人は戸惑うことでしょう。 聖書は苦難や困難を試練という言葉で表現します。誰でも苦しいことや辛いこと、嫌なことはできる限り避けたいと願うものです。人間の本能は自分にとって脅威となると感じることに対しては、「闘争逃走反応」 FIGHTorFLIGHT)ファイトORはフライトと言って、戦うか逃げるかの選択をします。戦うには多くのエネルギーと犠牲を伴いますから、 まず逃げることを優先します。 逃げるということは何となく 敗北感を感じますから 回避するとか距離をとるとか、関わらないようにするとか、「君子危うきに近寄らず」とも言います。ところが、ヤコブは戦うわけでもなく 逃げるわけでもなく、 別の方法を示しています。 それはむしろ「喜びなさい」 という意外な方法です。

ヤコブ11節で「挨拶」という言葉は「喜ぶ」という動詞から来ているとお伝えしました。 むしろ 「喜びなさい」 ということばを、今度は反対に「挨拶しなさい」と置き換えることもできそうです。戦ったり、逃げ出したりする前に、「挨拶をしなさい」 というのです。 挨拶もせず、いきなり喧嘩を売るか、戦い出すか、あるいは挨拶もせずに逃げ出すか、 せめてまず一言挨拶をする気持ちをもって、出迎えてみようと言うのです。「こんにちは試練さん」「ハロー試練君」と声をかけてみましょう。というのは、苦難や困難には何か深い意味が込められているかもしれません。 もちろんそうでないかもしれませんが、でもまず一言挨拶だけはしてみる価値がそこにはあるからです。

世の中には挨拶するのも嫌なほど嫌いな人がいます、 反対に挨拶しても知らんぷりをして無視する人もいます。相手が最初に挨拶すべきであって、自分から挨拶しないと高ぶっている人もいます。けれども、どうも苦難に対しては一言挨拶をしてみる、「こんにちは」 と声をかけてみるだけの価値はありそうです。 少なくとも キリストを信じて歩んでいるものにとってはその価値があります。 その理由の第12節「信仰が試されると忍耐が生み出されることを知っているからです」 昔のことわざに「艱難汝を玉にする」「若い時の苦労は買ってでもせよ」と、昔から言われるように、人間は長い歴史の中で苦難には尊いものが含まれているということを先人たちは学んできました。 それは苦難が忍耐を生み出すからです。 母が陣痛の苦しみを経て愛する子供を世に生み出すように、 試練や苦しみも、それを引き受ける人は、そこに忍耐を豊かに生み出すことができるからです。

 忍耐という言葉は、 一般に「我慢強く、 耐え忍ぶ」 という意味で用いられていますが、 旧約聖書的には神への希望・信頼を抱くという意味を持っています。 そして、新約聖書にはそのスピリットが引き継がれて「神を待ち望む」「待望」という意味で用いられています。1時間や2時間、じっと我慢をする あるいは1ヶ月、2ヶ月辛抱するという短いスパンスではなく、キリストが再びおいでになる「再臨の時」 終末のその日まで、神を信じ待ち望むという長いスパンが念頭に置かれているのです。

そんな長い期間、待ってられない、耐えられないと思いますけれども、 神が共におられることを信じる信仰に生きるものにとって、 それは決して不可能ではありません。

2 あなたがたの忍耐を働かせなさい

ヤコブ
はただ 忍耐を持っているというのではなく、それを「働かせなさ」いと勧めています。 持っていても使わなければ宝の持ち腐れです。 「持っていること」とそれを「十分に活躍させる」こととは違います。忍耐という言葉は「その下に踏みとどまる」という意味があるそうです。 つまり、「持ちこたえる」という意味があるそうです。春を待つ草花が雪の下で静かに芽を出し待っているイメージを抱くとよいかもしれません。冷たい雪の下で、雪の重さに耐えながらも「春が来る」と信じて待っているのです。そして春は決して裏切ることなく、失望させることなく、まもなく来るのです。

3. そうすれば…完全な人になります

試練に耐え、忍耐を養っていく目的が記されています。「完全なもの」となるためですとヤコブは語っています。完全なものとなる、整えられたものとなる、欠けるところのないものとなると、 3つ同じような言葉が繰り返し使われて、非常に強調されています。 「完全になる」という言葉は、 一言で言うと「生まれたばかりの赤ちゃんやあるいは幼子から大人になる」ということを意味します。 赤ちゃんはただ泣くことしかできません、小さな子供は思い通りにならないとだだをこねて、寝っ転がって手足をバタバタさせてアピールします。けれども大人になると泣きわめいたり、ジタバタしたり、 あるいはただただ落ち込んでしまったり、自暴自棄になったりするのではなくて、 なんとか解決しようと落ち着いて考えたり 、自分一人じゃ無理ならば周囲の人にSOS を出して、助けを求めようと「知恵」を働かせます。 まあもちろん世の中には子供のまま大人になったような人もなきにしもあらずで、周囲を困らせたりしがちですけれども・・。 大人になるという意味で「完全なもの」となる。英語ではパーフェクトパーソンという言葉が用いられています。

しかし、さあここで 改めてヤコブ書を読む時のポイントが出てきます。完全無欠なパーフェクト人間になること、神がそれを私たちに求めておられると読み込み始めるとアウトです。福音の世界から律法 道徳の世界にたちまち落ちていってしまいます。倫理道徳的に落ち度も欠点もない、罪も犯さない理想的な完全な人間になれと神様が要求しているのではありません。 多くの困難や戦いや試練の中に置かれても、キリストの名において神に信頼して落ち着いて対応できる実力を身にまとうこと、大人のキリスト者となってゆくことが目的とされているのです。

大人のキリスト者、その姿を私たちはイエス様ご自身の中に見ることができます。キリストに習うものとして日々歩んでゆくことです。 地上の生涯においては、生涯現在進行形となり、 完成したとか達成したということはありえません。 終わりの日の完成を待ち望む「待望する」しかありませんが、神は今のありのままの私たちを受け入れえくださっているのです。

 あるカトリックの 神父が、「洗礼を迎える方々の中に自分はそんな資格があるのかどうか直前まで悩んでいる方がいらっしゃる。しかし大切なのはその正直さであって、そういう弱さや 自分の不完全さを自覚しているということが 尊く 洗礼を受けるにふさわしい 」と語っています。もし「自分こそ洗礼を受けるにふさわしい人間だ」という人がいたら、反対にもっとしっかり勉強してもらうと語っていました。 私たちは試練の中で成長していきます。「憎みては打たぬものなり 笹の雪」という短歌があります。 笹の小枝に雪が降り積もっている、雪の重さで枝が折れてしまわないようにそっと 枝を叩いて雪を払い落とすという、 庭の持ち主の思いやりを歌った歌だそうです。

 ヤコブは12節で試練に耐え忍ぶ者は幸いです。耐え忍んだものには命の冠が与えられます」 と語っています。父の御心の中を従順に歩み抜かれたのはイエス様ただお一人です。 貧しい者、虐げられているもの、疲れたもの、病に伏すもの、 差別され疎外されている者の友となり、隣人となり、 十字架の死まで あゆみ 抜かれたのはイエス様ただお一人です。 その人こそ信仰においても、愛においても父への従順さにおいても完全に歩まれた ただ一人のお方、パーフェクトパーソンです。 私たちはその方の御霊をいただきながら、 忍耐を養わせていただき、 その道をイエス様と共に共に歩んで行くのです。

        「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」(コロサイ1:28)

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