2014年度 主日礼拝
  2014年7月20日



使徒1612-26  賛美は鎖につながれない

パウロとシラスはピリピの町で、占いの霊につかれていた女奴隷から悪霊を追放し、彼女を束縛から解放しました。商売できなくなってしまった主人が怒って二人を訴えました。しかも「営業妨害」で訴えたのではなく「ユダヤ人が騒ぎを起こしている」という差別問題で訴えたため多くの群衆までも加わり大騒動に発展してしまいました。裁判官も群衆の怒りを恐れて、正式な裁判をしないまま、二人を激しく鞭うち、牢獄につなぎ、動くことができないように木製の足かせをつけて投獄しました。

1.    牢獄の賛美

ところが深夜、二人が鎖で繋がれた奥の牢獄から静かな賛美が流れてきました。牢獄の囚人たちは聞き入っていた(25)とありますから、パウロとシラスはよほどの美声の持ち主だったのかもしれません。私が思うに、彼らの賛美は、礼拝そのものでした。ですから、彼らの美声のゆえに囚人は聞き入っていたというよりは、まさに「あり得ない状況の中でも彼らが礼拝を捧げる」そのまことの信仰の姿に心を動かされていたのではないでしょうか。どんな悪人にも「宗教心」はあるものです。彼らが聞き入っていたのは、「不思議でしょうがなかったから」そして心に響くものがあったからだと思われます。

というのは、ピリピは偶像礼拝の盛んな町でしたから、囚人たちも多くの人々がギリシャやローマやピリピの神々を礼拝する光景を町中いたるところで見ることができたはずです。祈るすがたも数多く見聞きしたことでしょう。ところが、まさかこんな時にこんな状況の中でいつものように神を礼拝する姿は、驚きであり、不思議でした。それゆえ、囚人たちは静かな感動さえ覚えたのではないかと思います。もっともパウロとシラスにとっては、置かれた場所がどこであれ、神の前に立ち、礼拝を捧げることは自然なことであり普通のことでした。礼拝者には常に静かさがあり、賛美があるのです。

詩 65:1 神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。

2.    理不尽さと困難の中での賛美

無実にもかかわらず訴えられ、ユダヤ人だと差別され、裁判もないまま不当に激しく鞭うたれ、そのうたれた傷は化膿して痛みがますます耐え難いものなっていたことでしょう。しかも、普通の囚人たちは逃亡しないように重い鉄の鎖で牢獄につながれますが、彼らは両足を閉じることができないように「木の足かせ」まではめられて牢につながれました。必要以上のひどい仕打ちを受けているのです。考えれば、すべてが理不尽なことばかりでした。そしてだれもそこから彼らを救い出そうとする者はいませんでした。

ですから、こんな状況の中で、神を礼拝することなど、ピリピの囚人たちの感覚では不可能なこと、あり得ないことでした。こんなひどい目に合わせるような神をいったい誰が信じるというのでしょうか。反対に、恨んだり憎んだり、「信仰を放棄」しても当然かもしれません。御利益をもたらさない神などもはやピリピの人々が必要とする神ではないからです。

ところが、パウロとシラスは、まさにこんなあり得ない状況の中で、いつものように神を礼拝したのです。あり得ない状況の中で、それでもいつものように静かに礼拝をささげ、賛美をささげる・・これがキリスト者の姿なのです。パウロとシラスの二人にとって、牢獄の中であろうと、外であろうと、会堂の中であろうと、野外の川べりであろうと、神を礼拝する場所にかわりはありませんでした。彼らと神様を隔てるものは何もないのです。置かれた事情境遇にかかわらず、神様の前に立つこと、これこそが礼拝のすべてでした。

今日の説教の題は「賛美は鎖につながれない」としました。

パウロとシラスを牢獄につなぐ重い鉄の鎖も、痛みを増す木製の足かせも、牢獄の暗闇も冷たい壁も、行く手を妨げる鉄格子も、パロとシラスの賛美と祈りを妨げることはできませんでした。賛美は鎖につながれないのです。たとえ、からだは牢獄に縛られても、彼らのこころは自由であり、神の前に立つ自由な心からは、賛美は静かに流れ出ました。彼らの祈りと賛美をとどめることは不可能なのです。

かつて、預言者エレミヤはこのように語りました。
「わたしを癒してください。そうすれば私は癒えましょう。私をお救い下さい。そうすれば私は救われます。あなたこそ私の賛美だからです。」(エレミヤ
1714

彼は「わたしの賛美は神様、あなたご自身です」と告白しています。詩篇の記者もこのように告白しています。

「私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」(詩34:1)

「主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、【主】に信頼しよう。」(詩40:3)

この世のうわさばなしに戸は立てられないと言います。あっという間に広がってしまい、ぐるりと一回りして本人の耳にも入ることさえあります。一方、クリスチャンの場合、その人の中から、賛美と祈りを奪うことはだれにもできません。救いの喜びと感謝からあふれる真実、神への礼拝を、だれもとどめることができないからです。

あなたも今、目に見えない牢獄に閉じこめられているような不遇の中に置かれているかもしれません。打たれた傷の痛みが増し加わり、祈りのことばを奪ってしますような厳しい中におかれているかもしれません。けれども、置かれた状況がなんであれ、私たちは主の前に立つことができるのです。

いいえ、いつでもどこでも神への礼拝に招かれているのです。そのことを思うとき、私たちの心から神への祈りと賛美は流れ出てくるのです。
それゆえ、私たちもエレミヤのように賛美いたしましょう。

「あなたこそ私の賛美だからです」(エレミヤ1714



   

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