2014年度 主日礼拝
イ-スタ-記念礼拝  2014年4月20日

                          マタイ281-10 「よみがえらえたイエス様にハレルヤ」 

先日、ス−パマ−ケットの折込チラシを見て驚きました。「イ−スタ−セ−ル」と銘打って特価販売をしていました。いよいよクリスマスセ−ルだけでなくイ−スタ−セ−ルにも商売人が注目し始めたかと思い、どんな説明をしているのだろうかと案内を読んでみると、「春のおとずれを告げるお祭り」と解説してありました。どうもイ−スタ−は日本では桜祭りと同列の「春祭り」に仕立て上げられそうな雰囲気です。その上、イ−スタ−にはきれいに彩られた卵が配られるので、子供たちの中には「たまごの日」だと誤解している子もいるようです。イ−スタ−とは「キリストの復活」をお祝いする記念日のことです。「十字架で死なれ墓に葬られたキリストが3日後に死の力を打ち破って復活されたことを記念する日」として欧米のキリスト教国では、喜びと感謝が教会で捧げられます。この日、欧米の教会では、「ハッピ−イ−スタ−、主はよみがえられました!」と挨拶のことばが交わされるそうです。

さて今、読んでいただいた聖書の箇所には、キリストの復活の出来事が記されています。金曜日の朝9時からイエス様の十字架の処刑が開始され、午後3時には息を引き取られました。日没からはユダヤ教の安息日が始まるので、それまでに遺体をおろし、洞窟をくり抜いて造られた墓に埋葬しなければなりません。日没までに時間がないため女弟子たちがイエス様の亡骸を大急ぎで布でくるんで墓の中に収めました。安息日があける日曜日の朝に再び墓を訪ね、香油を塗って丁重に葬ろうと考えていたからです。

そして3日目の日曜日の早朝、彼女たちが墓に出かけてみると、洞窟の入口にはロ-マ兵が見張り番に立ち、厳重な警戒体制がひかれ、だれも近づけないようになっていました。夜の間に、墓の入口は大きな石で塞がれ漆喰で塗り固められ、動かすことができなくなっていました。これを皇帝の名による「封印」といいます。

彼女たちが墓の前で途方に暮れていたその時、大きな地震が起き、墓をふさいでいた岩が脇に転がされ、その岩の上に、御使いが突如現れました。ロ-マの番兵たちは恐ろしさのあまり、逃げ出してしまいました。すると、御使いはそこに残った女性の弟子たちに「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです」(マタイ28:6)と、驚きの事実を告げました。「イエス様がよみがえられた」という彼女たちの知らせを聞いてすぐさまペテロとヨハネが墓に駆けつけました。中を覗くとイエス様の亡骸はどこにもなく、遺体を包んでいた布だけがそのままの状態で置かれていたと聖書は記録しています。これが日曜日の朝に起きた出来事・事実なのです。

こういうわけですから、イエス様の遺体をおさめた墓はどこにも存在していません。エルサレムにはイエス様のお墓が2箇所ありますが、歴史的根拠はありません。後世に設けられた観光用のお墓です。お墓ばかりかキリストには遺骨も遺髪も遺体もなにひとつ存在していません。なぜならばイエス様は、「よみがえられた」からです。

世界の四大聖人といえば、イエスキリストのほかに、仏教の創始者である釈迦(本名 シッタ--タ)、イスラム教の創始者で裕福な貿易商人だったマホメット、東洋では儒教の創始者である中国の孔子、西洋ではギリシャ哲学のソクラテスの名前をあげることができます。彼らはみな歴史上の人物であり人間として生まれ人間として寿命を全うして肉体の死を迎え、丁重に墓に葬られました。かれらの遺体が埋葬された場所と墓は「聖所」と呼ばれ、聖所を訪れる巡礼者たちがあとをたちません。インドのサンスイセイガンに釈迦の墓があり、中国の四川省に孔子の廟があり、サウジアラビアのメッカにはマホメットの墓があります。ところがキリストには墓がありません。それはキリストがよみがえられたからであり、なにも存在していない「からの墓」にはなんの価値も意味もないためです。

では、キリストの復活は私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。

第1に、イエスキリストは単なるりっぱな「人間」ではなく、「人となられた神の御子」であることを意味します。

人間であることの確かな証拠は人として親から生まれ、(卵から生まれた人間の話など聞いたことがありませんね)、やがて人として死んでいくことです。医者が医学的に心臓の停止を告げたにも関わらず72時間後に息を吹き返したという話を私は聞いたことがありません。「生まるれば死ぬるものなり猫も杓子もほとけもだるまも」と一休和尚が語ったと言われていますが、その通りです。しかしながら、世界でただひとり墓をからにし死からよみがえり、人類を死の支配から解き放つことができたのは、キリストただひとりです。それゆえ彼は「救い主」「神の御子」と呼ばれるのです。

復活なんてそんな馬鹿なことをどうして信じられるでしょうか?と言われる方も多くおられます。常識や理性からは当然の反応だと思います。しかし、今、世界中で10億人以上の人々が、キリストの復活を信じ受け入れ、クリスチャンとして生きています。その中には少なくとも私たちよりは頭の賢い、ノ−ベル賞を取るような科学者や医者や文豪や哲学者たちも多くいます。弟子の中でただひとり、イエス様の復活を信じることができなかったトマスという弟子の行動が聖書に記されています。よみがえられたキリストは、彼に現れ、「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と諭しました。あなたも世界中で10億人以上もの人々が信じているキリストの復活を信じる一人になってください。信じない50%に属するのでなく、信じる50%に属してほしいと願います。

ヨハ 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

ヨハ 20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

第2に、イエスキリストは復活を通して、死が終わりではないことを明らかにされました。肉体の死の先にいったい何が待っているのでしょう。死んで帰ってきた人はだれもいませんからはっきりしたことは誰にもわかりません。しかし死んで墓に葬られたキリストが復活されたことは、「もはや死に支配されない永遠のいのちの世界があること、永遠の神の国が存在している」ことを明らかにしたことを意味します。

聖書は繰り返し「キリストを信じるものは、永遠のいのちを持つ」と教えています。この真理は次週しっかり学びますから、ぜひ来週も続けて礼拝にお越し下さい。死は終わりではなく、永遠のいのちへの新しい始まりなのです。

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハ 17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

第3に、イエスキリストは復活を通して、今も生きておられる救い主として、信じる者たちとともに人生を歩んでくださることを力強く教えてくださいました。

もしキリストが死んで墓に葬られてしまったままとするならば、キリストに会うためには墓に会いに出かけて行かなければなりません。しかしよみがえられたキリストは永遠のいのちを持ち、今も生きておられますから、イエス様から会いに来てくださることができるのです。事実、復活の朝、御使いのことばを告げるために大急ぎてエルサレム教会の仲間たちのもとへ駆け出した女性たちに、イエス様ご自分から出会われて、「おはよう」(マタイ28:9)と、普段どおりに声をかけてくださいました。

私たちが一生懸命、救い主を探し出すというのではなく、救い主の方から私たちを探し出して声をかけ出会ってくださるのです。救い主イエス様は今も生きておられるお方ですから、そのことが可能なのです。あなたが不思議な導きで、クリスチャンに出会うとき、キリスト教のラジオやテレビ番組を聞いたり見たりするとき、キリスト教関連の本を手にとって読んでみたとき、あるいは思い切って教会を訪ねてくださったとき、そのときが、よみがえらえたイエス様があなたと出会ってくださるときなのです。

私は、今までのクリスチャン生活40年間の中で多くの方々と出会いました。大きな感動を受けたお一人に千葉県で牧師夫人としてご活躍された田原米子さんがおられます。宇治教会の特別集会の講師としてお招きしてお話を聞くことができました。

高校時代にお母さんを亡くしその悲しみの中で人生の意味を求め始めましたが、担任の先生は「そんなことを考える暇があったら勉強しろ」という返事しか聞くことができなかったのです。図書館にある哲学書の中に「人間にとって一番幸福なこと、それは生まれてこなかったこと。次に幸福なことは一刻も早く死んでしまうこと」という文を見つけ、彼女は鉄道自殺をはかったのでした。幸い現場に医者がいて応急処置を施すことができ一命をとりとめましたが、両足と左腕を失い、右手も指が3本だけしか残りませんでした。キリスト教の宣教師がやがて病室を訪ねてくださり、聖書からお話をしてくださいましたが、彼女にはとても受け入れることができず、「神様がおられるならなぜ助けてくださらなかったのか。神様が愛ならどうしてこんなひどい目にあわせるのか」と追い返していました。

ところがあるとき、聖書をめくって読んでいたときに、「キリストが十字架で死なれたのは、罪人の罪をことごとく赦すためであり、神の愛がそこに明らかにされている」ことに目が開かれました。「2000年前にもう、神様は自分のいのちさえも捨てようとしたこんな罪深い私をも愛してくださっていたのだ」と知ったとき、彼女の人生が変わりました。よみがえられたイエス様とともに歩む新しい人生の扉が開かれたのでした。彼女は牧師と結婚し、2人の娘さんの母となりました。指3本しかない体で、家事・育児・料理・洋裁なんでもこなしました。大福餅は得意中の得意なのだそうです。

ちょうどその頃、私の父が脳梗塞で出勤途上で倒れ、入院・リハビリに励みましたが回復が思うように進みませんでした。すっかり意欲を失い落ち込んでしまっていました。父の様子を話すと米子さんは3本の指で小さな折り鶴を作ってくださり、お父様にお渡しくださいと著書とともにくださいました。父に送るとすぐさま返事がきました。「今まで失ったものばかりを数えて嘆いていた。でもこれからはまだ残されているものを数えて感謝して生きていく。」と記されていました。父はその後、クリスチャンとなり、不自由な体ながら視覚障害者のために点字をマスタ−して、リ--として活躍するようになりました。

想像を絶する暗闇と絶望の中から、光と希望へと米子さんを導いてくださったイエス様は、米子さんを通して失意のどん底にいた父を引き上げてくださいました。よみがえられた救い主キリストは今も、多くの人々と出会い、その人生をともに歩んでくださるのです。

失望を希望に、悲しみを喜びに、嘆きを感謝に内側から変えてくださることがおできになるのです。キリストはあなたの人生とともに歩んで下さるのです。あなたが試練のどん底にいるときにも、あなたが誰からも理解されず受け入れられず孤独の中にいるときにも。このお方は死からよみがえられた救い主であり、神の御子だからです。キリストの名を呼ぶものを決して失望させることはなさいません。

マタ 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
ロマ 10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。

                                                                       以上



   

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