2014年度 主日礼拝
2014年1月1日

題「瞳のように守り、御翼の陰にかくまわれる神」

新年、おめでとうございます。この1年も神様の豊かな祝福の中を歩まれる日々でありますようにと心からお祈り申し上げます。  

1.    ひとみのように守ってください
「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(8節)

ダビデ王はイスラエルの歴史上、最も偉大な王と呼ばれています。一介の羊飼いから、神に選ばれ王となり、ユダヤ国家を築いた人物でした。ダビデ王は偉大な指導者、政治家、軍事家、竪琴の名手そして詩人でしたが、何よりも祈りの人でした。ダビデ王は今、多くの敵に囲まれ攻撃され苦悩の中に置かれていますが、「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」と、彼は謙虚に神の助けと守りを願っています。私たちは、人間の力や努力には限界があることをわきまえなければなりません。精一杯一生懸命手抜きをせずに生きることは尊いことですが、人には限界があり、できることとできないこととがあることを認め、へりくだって神に助けを求めることは人生の豊かな知恵であり、幸いなことなのです。へブル語では人間は「土」という意味をもっています。ただの土くれにすぎません。何よりも弱く無力な存在なのです。ギリシャ語では人間は「上を見上げる者」という意味を持っています。本来、人間は天を見上げ、神を仰ぐ存在とされています。ですから、神を仰ぎ礼拝することは自然なすがたと言えます。人に対して謙遜な人は神様に対しても謙遜です。人に対して傲慢な人は神様に対しても傲慢です。ですから、神様に対して謙虚になれず、祈ることを学ぶことができないのです。

ダビデは祈りの人でした。そして、神様はご自身が愛するものたちをどれほど注意深く見守ってくださることかよく知っていました。瞳がまぶたによって瞬時に守られるごとく、そしてひなが親鳥の翼の下で守られるごとくに、ダビデは神様がご自分の愛する者を守られることを知っていました。もし、知らなければこのような表現は生まれてこなかったでしょう。

ご存知でしょうか? 人間のすべての筋肉のなかで最も反応が鋭いのは、瞼の筋肉であるといわれています。目に危険がおよべば瞬時に瞼が閉じて瞳を守ります。ですからこの言葉は、神様がどれほど愛する者たちを愛をこめて注意深く見守ってくださっているかを、美しく表現しています。目はたいへん繊細でデリケ-トな器官です。私たちはしばしば取り扱うのに気を遣う、複雑でデリケ-トな問題に直面することもしばしばあります。そしてこうしたデリケ-トな問題の方がかえってむつかしく、自他を傷つけてしまうことも多いのが実際ではないでしょうか。

次に「御翼の陰にかくまってくださる」という表現が出てきます。「御翼の陰に」ということばは、神が預言者モーセを遣わして、エジプトでの奴隷生活からイスラエル民族を救出し、40年間の荒野での大移動を守り導かれたときにも象徴的に用いられている表現です。約束の地に入るまでのすべての行程を最後まで導き守られるという確かさを含んでいます。
申命記32:11「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行く」と、荒野の行進を導かれる神の力と守りが、ひなを見守る親鷲のイメ−ジで表現されています。先日、イスラエルの代表的な鳥を10種類集めた記念切手シ−トを見つけました。その中で最も高い値段の切手には「鷲」の絵が描かれていました。鷲は鳥の中の王者とよばれて力を象徴しています。
親鷲は翼を広げて雨風からひなを守ります。 敵の攻撃に対しては翼を大きく広げてひなをかくまいます。 翼を広げて日陰を作って砂漠の強烈な日差しからひなを守り、夜間の強烈な冷気からひなを暖かな翼の下にかくまって守ります。さらに巣立ちをするひながうまく羽ばたくことができず巣から墜落してしまったときには、すばやく下に舞い降りて、翼の上にひなを乗せて、ひながうまく羽ばたけるように助けるとも聞きました。なんと力強い豊かな守りでしょうか。

神様は私たちを瞳のように守り、御翼の陰にかくまってくださるお方であり、それほど私たちを尊い存在とみなしてくださっておられるのです。 神様の守りに導かれて、この新しい1年も歩み続けましょう。

2.    目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。(15)

苦しみもだえる夜があっても、眠れぬ夜があっても、目覚めるとき、つまり朝には、神の御姿に魂は満ち足りるとダビデは賛美しています。朝、どうして神の御姿を見ることができたのでしょう。それはダビデが朝ごとに神様への礼拝、「朝の祈り」をささげていたからでした。朝の祈りがダビデを神の御前に導いたのです。そして、ダビデをあらたないのちで満たしたのでした。まさに、朝の祈りの中から魂は満ち足りていくのです。 この朝の祈りは文字通りの「朝の祈り」と言えますが、同時に「静かな沈黙の中での祈り」と理解することも可能かと思います。

プロテスタントのクリスチャンはマザ−テレサのようなカトリック修道士や修道女の祈りから多くを学びとることができるのではないでしょうか。マザ−テレサの次のことばに私は深く教えられました。「神は沈黙の友です。わたしたちは神を見つけなければなりませんが、騒音や興奮の中に神を見いだすことはできません。自然が、木が、花が、草が、深い沈黙の中でどうやって成長していくかを見なさい。」「沈黙の祈りの中で受け取れば受け取るほど、活動の中でより多くのものを与えることができます。」

マザーテレサの名刺にはこの言葉が印刷されているそうです。片柳神父がこのように解説されています。「沈黙の祈りの中で神から受け取った恵みは信仰の土台となり、信仰は愛の奉仕を生みます。愛の奉仕の中で、わたしたちは神から無償で受け取った恵みを、無償で人々と分かち合っていきます。そうやって世界中に神の愛の輪が広がっていったとき、本当の平和が生まれるのです」と。本当にその通リだと深く共感しました。豊かな奉仕は静かな沈黙の中の祈りから生まれてくることを私たちは学びたいものです。

ダビデ王ばかりでなく、イエス様ご自身も常に静かな祈りを愛されたことを思い起こしましょう。「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(マルコ135 

祈りの著作で有名なベイリ−博士は「「造り主また贖(あがな)い主なる神よ、あなたの祝福がともなわなければ、私は今日歩み出すことが出来ません。」と記しています。
朝の静かな祈りの中で、主のみことばを聴き、主の臨在を経験し、今日、一日のいのちの力を豊かにいただこうではありませんか。
「私が目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」 沈黙の祈りのレッスンを学んだ者たちが共有できる豊かな恵みではないでしょうか。

今日一日を豊かに満ち足りて生きること、それが365回重なって、また新しい1年を私たちは感謝をもって迎えることができるのです。

36:7 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。
61:4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。 セラ
神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。



   

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