2010年度説教 4月25日 主日礼拝
「信仰の高嶺をめざして」シリ−ズ(15)

題「ダビデの祈り」

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)

後にユダ・イスラエルの統一王国の王となったダビデ王の信仰から学びましょう。ダビデとは「愛される者」という意味です。貧しい羊飼いエッセイの家にうまれ、8人兄弟の末っ子でしたが、名前の由来からも両親から深く愛されたと推測されます。昔、日本では兄弟が多くて貧しいため、親は末っ子に「留吉」とか「トメ」と名づけたそうですが大きな違いですね。

1.選び

ダビデの家系にはモアブ人であったルツがいます。学者によってはダビデの母も異邦人であったと考えています。それはダビデが次のように出生について語っているからです。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。」                                (詩篇51:5−7)

このようにダビデは恵まれた環境の中で成長したわけではありません。経済的にも社会的にも貧しく虐げられた低い階層の出身でした。しかし、この最も小さい者が神様によって選ばれたのです。一番小さな者が最も大きな器とされたのでした。

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(1コリント1:27−29)

無きに等しい小さな者を神様はいつの時代であっても用いられるのです。これは神様の永遠の原則ともいえます。

今回、私たちは一駅離れた場所にある94坪の広さの会堂に移転する導きを受け、教会の年次総会において審議し、購入を決議しました。5年前、近くの会館を借りて礼拝をしていたときに50名以上の人々が礼拝に集うようになりましたが会堂建築の祈りが始まった時に諸事情とも重なって人数が減少してしまいました。今、教会員が最も少なく教会財政も大変厳しいときに、神様は一番大きなことを始めてくださいました。私たちが一番無力な時に神様は一番大きなことをしてくださいました。それは人間的な力を誇らず、ただ信仰によって、神様の恵みを受けとめるためでした。

神様は、小さき者、貧しい者を、主の名のゆえに選んでくださるのです。なんと幸いなことでしょう。

2.訓練

ダビデは神様から選ばれました。神様によって選ばれた者には霊のレッスンが用意されています。それは「苦難と試練」という名のもっとも価値あるレッスンです。
ダビデにとって第一のレッスンは、「貧しい日常生活の場」そのものです。

羊飼いとしての重労働や貧しい生活そのものが幼いダビデにとって最初の訓練であり試練でした。神様は思いもかけないような緊急事態と呼べる危機的状況をもって訓練されるとはかぎりません。むしろ日常の日々の生活の中で神様は私たちを取り扱われます。幼稚園の子供たちが遊びの場である「砂場」で多くのことを学ぶように、クリスチャンもまた日常生活の場で多くのことを学ぶのです。

貧しい生活を過ごした少年ダビデでしたが、ベツレヘム周辺のみどりの牧場はダビデに多くのことを教えてくれました。ダビデの生活の舞台となった自然の牧場こそがダビデの礼拝堂でした。黄金と大理石で飾られたエルサレムの神殿にまさるところの礼拝堂でした。詩篇23にはこうした経験が描かれていると思います。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私をみどりの牧場に賦させる」(詩篇23:1−2)

第二のレッスンは「難しい人間関係」そのものです。

ダビデはやがて王宮でサウル王に仕えることとなりました。サウル王は非常に有能な王でしたが、おごりと高ぶりがやがて彼のこころをむしばみ腐敗させてゆきました。次第にサウル王は預言者サムエルの言葉に耳をかさなくなり、神様のみこころに背くようになりました。その結果、祝福を失い人望も冷え切ってゆきました。彼は神様に捨てられ、悪霊に悩まされ、精神的にも感情的にも安定を失ってゆきました。そのたび毎に、音楽の才能にも恵まれていたダビデは、竪琴を鳴らしてソウル王のこころを癒しました。情緒的に不安定で、気性も激しく、思考にも一貫性がないとなればこれほど気難しい人はいないと思います。しかしダビデは最後までソウル王に忠実に仕えました。難しい人間関係の中でこそ人の心は養われ、しなやか対人関係能力やリ−ダ−シップを学んでゆきます。

どこへ行っても難しい人はいます。「あの人さえいなければ幸せになれるのに」とつい恨んでしまうようなことが私たちの身のまわりにもしばしばありますね。しかし最も難しい人間関係の中でこそ器は磨かれるのです。

「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」(1ペテロ2:8)

第三のレッスンは「危機状況」です。

ダビデの人生の最大の危機はねたみとしっとに燃え狂ったサウル王からいのちをねらわれ続けたことでした。それはダビデにとって文字通り、死の陰の谷を歩むような日々であったと思われます。
「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

ダビデは自分を追いかけ殺そうとするサウル王に対して「あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。」と、自らを「死んだ犬」「一匹のノミ」(1サムエル24:14)と自嘲気味に表現しています。それほど強いストレスを受けていたのでしょう。

けれどもダビデは決して、怒りに対して怒りで対抗することを選びませんでした。ダビデ一行が身を潜めていた洞窟にこともあろうにサウロ王が用を足しに単独で入ってくると言う、絶好の機会がありました。部下はサウロのいのちを奪うまたとないチャンスであると進言しましたが、ダビデは「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(24:6)と部下をいさめました。

神にすべてを委ねたのでした。そして主が油を注がれた者を敬ったのでした。

このような危機状況の中にあってダビデは、将来の王として必要不可欠な忍耐を学び、部下の信頼をまし加えてゆきました。

神に愛された者は艱難のない道を歩むことができると聖書には書いてありません。神に愛された人は苦難とは無縁の人を決して意味しません。むしろ聖書は逆説的に「神は愛する者を訓練する」と教えています。苦難は神に愛されている証拠であるとさえ教えているのです。苦難の大きさは神様の愛の大きさでもあるのです。

「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12:5−8)

もっとも苦難の中にある人に向かって「あなたは誰よりも神様から愛されています」などと言えば、たたき出されることでしょう。これは他人に言われる言葉ではなく、自分が自分に語りかけることばであり、深い慰めと励ましのことばなのです。

「憎くては打たぬものかは笹の雪」という俳句があります。笹の葉に積もった雪の重さで細い笹の枝が折れてしまうかもしれない。そこで持ち主が笹の枝をポンとひとたたきして雪を払い落とす光景がうたわれています。

神様はご自身が選んだ者を愛しぬいておられます。愛されているからこそ苦難も試練として伴うのです。

新しい教会堂を目指して私たちも新しい船出をしました。多くの困難がこの先も伴うことでしょう。しかし私たちはひるみません。すべての困難もまた恵みと同様、神様の愛から出ていることを私たちは知っているからです。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)

羊飼いの持つ大きな杖やムチは、羊を打つための道具ではなく、正しい道や方向に導くための道具です。私たちの永遠の羊飼いである主イエスキリストの持つ杖とムチは、神のことばといのちの御霊です。イエス様はみことばをもって私たちを義も道、すなわち神様との信頼に満ちた関係へと導いてくださいます。

ダビデは若き日の歩みをふり返っています。それは敵に負われるような危難に満ちた日々でありながら実は、神の恵みに追いかけられつつあった日々であったことを告白しています。神に信頼する者に神の恵みが絶えることはないのです。

こうしてダビデは神の恵みの手に導かれつつ、一人の礼拝者として神の宮の中で礼拝をささげています。神とともにいること、神の臨在の中に身を置くことにまさる喜び、特権、希望、平安はないのですから。ダビデのこの願い、この祈りは、私たちの願いそして祈りでもあるのです。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(詩篇23:6)


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。




   

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