2009年度説教 12月13日 礼拝
「クリスマスシリ−ズ(2)」


題「クリスマスの希望」

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:6−7)

街中にもクリスマスツリ−のイルミネ−ションが美しく輝いています。京都駅の吹き抜け大階段に今年も大きなクリスマスツリ−が輝き、駅を行き交う人々の心にあたたかい想いを届けています。「100年に一度の大不況」と呼ばれた厳しい経済環境の中に今なお多くの人々が置かれ、再び厳しい冬を迎えようとしています。11年連続で自殺者も3万人を越えています。けれどもどんなに厳しい絶望的な状況の中にあっても必ず再び立ち上げる日は、生きている限り訪れます。ですから希望を決して失わないで、自分と明日を信じて今を「こらえて」いただきたいと願います。

さて、次週はクリスマス礼拝です。今週はその備えのメッセ−ジを旧約聖書から語らせていただきます。イザヤ9:1−7は旧約聖書最大のクリスマスメッセ−ジとなっています。紀元前700年代、イスラエルを取り囲む国際環境は日増しに劣悪化し、侵略と流血が繰り返される日々でした。国家が2分してしまったイスラエルの北部地域はやがてアッスリヤ王国による激しい侵略を受け滅亡してゆきます。預言者イザヤが活躍したのはまさにそのような激動の時代、イスラエルの暗黒の時代でした。

1.ミデアンの日

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(2)。

「苦しみのあったところ」(1)、「闇の中」「死の陰の地」(2)とは、紀元前734−732年に起きたアッスリヤ王ティグラテ・ピレセスによるイスラエル侵攻という歴史的事件を指しています。ピレセス王は北部ナフタリ全土を占領し、ガリラヤ・ギルアデの住民を捕虜としてアッスリヤに連れ去り、生き残った民はアッスリア領土内に住民として組み入れられてしまいました。まさに屈辱と暗黒の時代でした。しかし、預言者イザヤは、「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(2)と、イスラエルがやがて全能の神によって解放され捕虜となった民も帰還するという希望を語りました。

その解放の日を「ミデアンの日」(4)ともイザヤは呼んでいます。

「あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ」(4)

ミデアンの日とは、勇士ギデオンが3万2千人いる兵士の中から精鋭300人を選び、仇敵であるミデアン軍をうち破った記念すべき勝利の日を指しています(士師7章)。兵士の数の多さによってミデアン軍をうち破ったのではなく、神のみ力によって敵を敗り勝利し、ただ神の栄光がほめたたえられるために、300人が選ばれたのでした。それは人間の肉の力に寄らずまさに神のみ力による奇跡的な勝利でした。イザヤはかつての歴史的な勝利を回顧しつつ、アッスリヤからの解放も同様に神ご自身によるみわざとして必ず勝利するとイスラエルの民を勇気づけたのです。

あなたが困難や苦難の中であえぐときがあっても、あなたの試練にも必ず「ミデアンの日」が訪れます。神にあって希望を抱き、勇気づけられて歩みましょう。

私たちは長年、手狭い会堂の問題で苦悩しています。今、心からより広い場所へ移りたいと願っています。私たちの共同体がイエス様から託された働きを担うためにも必要です。しかし財源の問題が大きな壁となって立ちふさがっています。祈りを積み重ねる日々がまだ求められますが、この壁が崩される日が神のみ力によって成し遂げられると信じています。私たちにとっての「ミデアンの日」が神にあって訪れることを信じています。

2.ひとりのみどり子によって

イザヤはさらにこの勝利と解放が、やがて誕生する「一人のみどりご」によって実現される」(6)と預言しています。解放者である救い主の誕生を預言しているこの箇所は旧約聖書の中でもっとも有名なクリスマスメッセ−ジとなっています。そのひとり子は、「不思議な助言者」「力ある神」「永遠の父」「平和の君」の4つの名前で呼ばれました。

助言者とは大臣に仕える副長官のような立場に立つ者を指します。王の傍らにあって必要な助言。励まし・導きを与えることができる無くてはならない存在です。さらに彼の有する主権は常に「不思議」(つまり奇跡)を引き起こすことができるのです。人知を遙かに越えた大いなる力をもって神のみわざを行われます。それゆえ彼は「力ある神」ともよばれています。私たちが信じ信頼しているお方は決して無力な神、小さな神、物いわぬ神ではなく、「わたしの名は不思議」(士13:18)と言われる全能なる生ける神なのです。

救い主は永遠の父とも呼ばれます。子を保護し見守る父親のように、ご自分の民を子として永遠の愛を持って導いてくださるのです。父が子を忘れることなく見捨てることがないように、変わらぬ愛を持って導いてくださいます。

最後に救い主は平和の君と呼ばれます。この方によって究極の平和(シャロ−ム)がもたらされるからである。平和は単に争いや戦争がないという消極的な状態を指すのでなく、平和を生みだし平和が満ちるという積極的な状態を指します。真の平和は、神と罪人との間にうち立てられます。次に人と人との間にうち立てられます。最後に自分自身との間に平和が成就されます。この平和は他のことばで「和解」とも表現されます。敵対していた神との和解、人との和解、自分自身との和解が成就するのです。いいかえれば、神との間に救いが、人との間に平和が、自分との間に和解が成り立ち、そのすべてに「神の平安」が満ちるのです。神と人と自分との平和こそ救い主がもたらしてくださるのです。後に時が満ちてついに神のひとりごがベツレヘムに誕生した時、救い主キリストはこのように約束してくださいました。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

3.万軍の主の熱心によって

「今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(7)

7節はまとめとなっています。現実のイスラエルの悲惨な状況からは何の希望も見いだすことはできません。アッスリアに支配され無力であわれな状態に陥っているからです。イスラエルにとっての希望の光は、ひとりのみどりごの誕生と彼による解放と勝利でした。それは人間的な熱心さや人間的な力によってもたらされるのではなく、「万軍の主の熱心さ」(7)と「神の全能のみ力」(6)によってのみ実現されるのです。人間の側の不可能を越えて、神の熱意とみ力がすべてを成就します。イスラエルに求められたことは信仰をもって「信頼」し、「待ち望む」ことです。

それはおよそ3000年後の現代に生きる私たちにとってもそのまま共通する原則といえます。私たちも自らの小さな力に過信することなく傲慢になることなく、むしろ全能者の力に深く信頼して待ち望みましょう。

「もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる 」(ヨブ8:5−7)

「すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリ4:6)

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。