2009年度説教 12月6日 礼拝
「クリスマスシリ−ズ(1)」


題「ナルドの香油・・キリストの葬り」

「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マタイ26:6−13)

クリスマスまであと2週間となりました。クリスマスは神の御子、救い主イエス様の誕生をお祝いする日です。昨日、50歳を過ぎて結婚した私の友人が、赤ちゃんが生まれたというので携帯にとった写真を見せてくれました。奥さんの写真は見せてくれないのに赤ちゃんの写真はすぐに見せてくれるのは、よほど赤ちゃんの誕生がうれしいかったからだと思います。親であれば誰であっても生まれてきた赤ちゃんにこれから長生きしてすばらしい人生を歩んでほしいと願うものです。

ところが、ベツレヘムの村の家畜小屋の中で、マリアを母として生まれたイエス様は、生きるためではなく全人類の罪を背負い身代わりとなって十字架で「死ぬために」お生まれになったのです。最初から十字架ではりつけにされ身代わりとなって刑罰を受けて死ぬことが定められていたのです。このことはイエス様が生まれる700年も前からすでに預言されていました。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザ53:1−5)

イエス様の33年半のご生涯は、十字架の死に向かって時を刻む日々でしたが、イエス様の弟子たちは十字架の死を受け入れることもその意味を理解することもできませんでした。むしろイエス様がイスラエルの王となってダビデやソロモンの時代のような栄光を回復することに大きな期待をかけていました。そんな状況の中で、ただ一人のこの女性だけがイエス様のために心をこめて「葬りの準備」をささげたのでした。

さて、イエス様がベタニヤ村でシモンの家庭で開かれた宴会に出席された時、「ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注」(26:7)ぎました。部屋に漂う香りからそれは高価なナルドの香油であることがすぐにわかりました。彼女がなぜ惜しみなく高価なナルドの香油をイエス様にささげたのかその真意がわからなかった弟子たちは口々に、「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」(8−9)と彼女の行為を非難しました。

ナルドの香油とはインドやネパ−ルのヒマラヤ山脈に生息するスパイクナ−ドと呼ばれるピンク色の花を咲かせるオミナエシ科の植物の地下茎から抽出される琥珀色のエッセンシャルオイルを指します。当時としては最高級の輸入品であり、300デナリ、労働者の1年分の給料に相当する金額だったといわれています。多くの女性が花嫁道具の一つとして用意していたとも言われています。数滴でも香りがたつ香油を惜しむことなく1瓶、丸ごとイエス様の頭から足先まで注ぎきったのでした。

1 愛の浪費

イエス様への愛に根ざした奉仕や捧げものを「この世」の人々や「肉的な思い」からみれば、まさに「無駄」「無価値」なことに思えることでしょう。弟子たちでさえ「無駄なこと」と思ったほどですから、この世の人々がそう受け止めてももっともだと思います。しばしばクリスチャンの家族から、「もっと他にいくらでもお金の使い道があるだろう。なんで献金などするんだ。まったく我が家にとって無駄なこと。なぜ一銭の得にもならないのに教会の奉仕に時間を使うんだ。その時間、パ−トやアルバイトをすればお金になるだろう」という非難の声を聞くことがあります。しかし、聖霊の愛に満たされているとき、イエス様にささげることに対して「もったいない」「無駄使い」「浪費」などという惜しむ思いは生まれてきません。この女性も、たとえ1年分の給料に相当する高価なささげものであったとしても、一瓶すべてを注ぎかけてしまっても決して惜しいとは思わなかったはずです。むしろ、これがイエス様にささげる最後の贈り物であることと理解していたとすれば、自分の持っている最高の贈り物をしたいと願ったにちがいないと思います。

この世の人の目からみれば、彼女の行為は無駄なことあるいは浪費と映るかもしれません。しかし、神様を愛しイエス様を愛する者たちにとって、ささげること奉仕することは最大の喜びに他なりません。愛はいつでも「聖い浪費」なのです。なぜなら純粋な愛には計算や打算が働く余地がないからです。費用対効果や合理性だけでは愛を実践することはできません。たとえば、お母さんが赤ちゃんを育てる子育てを考えても、ある意味で「最大の愛の浪費」といえるのではないでしょうか。最大の愛の浪費の中で子供は健やかに育っていくのではないでしょうか。純粋な愛は計算と報酬を求めません。

2 記念として

彼女の思いを理解したイエス様は、「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と、彼女に代わって彼女の行為の真意を弟子たちに語りました。さらに「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」と彼女の奉仕とささげものを喜んで受け入れ、賞賛し、祝福されたのでした。

イエス様が「葬りの準備」と呼んだように、イエス様のからだに注がれたナルドの香油は、イエス様の十字架の死に対する「葬り」の用意でした。実はイエス様は「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」(26:2)と、2日後に迫ってきているご自身の死について弟子たちに予告されました。幾度も語っておられます。けれども弟子たちはイエス様の語られたことばの真意を理解できませんでした。ただ一人、彼女だけがイエス様の十字架の死を受け止め、葬りの準備をこのような愛の奉仕を通して行ったのでした。

私たちは今朝、学びたいことがあります。イエス様が喜びとされることは、イエス様の十字架の死を正しく理解し、受け入れ、感謝の心をもって応答することです。イエス様は「福音が語られるところどこでも記念とされる」と言われました。福音とは「喜びの知らせ」です。イエス様の葬り、あるいはイエス様の死が喜びの知らせとはどういう意味でしょうか。通常の感覚では理解できないことです。世の中には例外的に「あんな人は早く死んでもらったほうが世のため人のため」と恨まれる人がいるかもしれませんが、それはイエス様には当てはまりません。

なぜイエス様の葬りが「福音」なのでしょうか。イエス様の十字架の死こそが全人類に罪と永遠の滅びからの解放という最大の喜びをもたらすからです。そしてこの事実こそが聖書の伝える最大の真理でありビックニュ−ス・喜びの知らせなのです。

エペソ   1:  7  私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサ   1: 14  この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

私たちクリスチャンの信仰生活の原点は、イエス様の十字架の死に込められた「神の愛」を深く理解することにあります。神の御子が罪人に代わって、その罪を背負って十字架で死なれた。それほどまで私たちを罪人を愛してくださった。まさにここに愛があるのです。

1ヨハ 4: 10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


3 ベタニアのマリア

最後にこの女性が誰であったのか多くの推測がされていますが、ヨハネの福音書はベタニア村のマリアであったと記しています。
「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」(ヨハネ12:3)

いつも弟子たちに混じってイエス様のことばに静かに耳を傾けていたあの女性です。姉のマルタが「妹にも手伝いをするようにいってください」とイエス様に思わず愚痴をこぼしたほど、いつもイエス様の言葉に耳を傾けていたマリアです。ですからシモンの家で開かれた集会にも加わることができ、食事中にイエス様のもとに近づいても誰も不思議に思わず、制止することもなかったと思われます。

みことばに耳を傾けたマリア、このマリアだけがイエス様の葬りの準備を行うことができたのでした。イエス様のみこころを誰よりも深く理解することができたのです。

マリアが注いだナルドの香油の香りは、イエス様がゲッセマネの園で祈られたときも、総督ピラトのもとで裁判を受けた時も、ほのかにイエス様の全身を包んでいたことでしょう。ドロロ−サの道を十字架を背負って歩まれた時にもほのかな香りが漂ったことでしょう。血なまぐさい十字架の処刑現場にもナルドの香りは漂ったことでしょう。それは世界でもっとも高貴な方のもっとも意味深い価値ある死を飾るにふさわしい香りであった思います。王の王にふさわしい香りであったと思います。

だからこそ、福音が語られるところどこでもマリヤのささげた奉仕が語り伝えられたのです。

今では、ナルドの香油(エッセンシャルオイル・スパイクナ−ド)は、アロマショップに行けば1500円ぐらいで誰でも買うことができます。けれどもマリアが愛をもってイエス様に捧げたナルドの香油は、今も「私たちの心の中」に存在しています。私たちが心の中に、決してお店では手に入れることができないナルドの香油を持っているのです。イエス様の十字架の恵みに感謝する心とそこから流れ出る愛の奉仕こそが、イエス様が受け入れ喜びとされるもっとも麗しい香りなのです。

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。