2009年度説教 11月29日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「明かりを輝かせて」

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、
油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、
入れ物に油を入れて持っていた。
」(マタイ25:1−4)

昔から「備えあれば憂いなし」と予防対策の重要性が繰り返し強調されています。 私も最近、年齢相応に物忘れが多くなり日常生活の中で少々困っています。出かける直前に「かぎがない」「免許証がない」「サイフがない」とあわててしまうことがよくあります。ですから最近は、鍵をかける場所、免許証をいれるケ−スの位置など決めて必ずそこにいれるようにしています。これで出かけにあわてふためくことを少しは防ぐことができるようになりました。

今日の箇所は弟子たちに語られた有名なたとえ話です。ドイツのある有名な教会の入り口にはこのたとえ話しの彫刻が施されているそうです。結婚披露宴に招待された花嫁の友人たちが、花婿の到来がすっかり遅れてしまったために、ランプの明かりを灯す油が切れかかっていたが、5人の賢い乙女は予備の油を携帯用に器に用意していたのですぐに準備できたが、愚かな5人はあわてふためいてしまったと言うのです。

このたとえの背景を説明します。

イエス様の時代、結婚披露宴は夜に行われました。花婿の友人も花嫁の友人も招かれ、盛大な披露宴が花婿の家で開かれました。多くの場合、花嫁の友人たちは、花嫁の家で花婿とその使いの者が迎えに来るのを明かりをともして出迎えるという習慣がありました。花婿を表で出迎えるばかりでなく、披露宴会場となっている花婿の家まで暗い夜道を歩いてために足下を照らす「明かり」がどうしても必要でした。このたとえに登場する10人の乙女たちは、招待されて披露宴に出席する花嫁の友人たちを意味しています。

さて、10人の乙女たちの中の半数はうっかりして予備の油を準備することを忘れていました。どのドレスを着ようか、どの宝石を身につけようか見かけの装いに気をくばったことでしょう。しかし肝心のランプの「油」にまでは気がまわらなかったようです。まさに油断大敵だったわけです。

イエス様はこの5人の乙女を「愚かな」者と言われました。この愚かさは、知識や知恵が足りないという「愚かさ」を意味することばではなく、「神が啓示される真理」に対する無知や頑迷さを指す「愚かさ」であると言われています。イエス様は神のことばを聞いて信じ、みことばに従う素直な心をもつ人々を「賢い人」と語っておられます。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)

では、このたとえ話をもうすこし見てゆきましょう。

準備や挨拶まわりで時間がズレ混み、花婿の到来が真夜中になってしまいました。そのために10人の花嫁の友人たちは疲れからうとうとと眠ってしまいました。真夜中になって花婿の友人の「迎えに出よ」との大きな呼びかけの声に彼女たちは目覚めたところ、灯火が消えかかっていたのです。5人の乙女たちはすぐにランプの芯を整え、予備の器から油をそそいでふたたび灯火を輝かせました。ところが用意していなかった五人はあわてふためき、「分けてください」と求めましたが聞きいれてもらえませんでした。これから披露宴が開かれる花婿の家までランプを照らして暗い夜道を歩いてゆかなければならないからです。5人は大慌てで油を買うためにお店に出かけた間に、とうとう主賓である花婿が彼女たちを出迎えに来たので、待たせるわけにはゆきません。用意ができている5人は花婿と友人たちと一緒に披露宴会場に出かけてしまい、残りの5人が息をきらして花婿の家に来た時には、すでに会場の表扉は閉められていました。花嫁の父親に向かって「ご主人様、あけてください」と願い出ましたが「あなたたちを知らない」(無関係)と拒まれてしまいました。

このたとえ話の結論としてイエス様は「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(25:13)と語られました。このたとえ話の中心主題は、終わりの時代にキリストはご自分の民をキリストの御国に迎えにこられるという再臨の約束についてでした。終わりの時がいつなのか天の父なる神様だけがお決めになり誰にもわかりませんが、目をさまして準備して待つことの大切さが教えられています。

さて、今朝、私たちはこのたとえ話から3つのポイントを学びたいと思います。

第1に、「主イエスの再臨」という主の約束について、私たちは「目をさまして」いなければなりません。イエス様は弟子たちに「十字架のあがないの死と罪の赦し」、「復活と永遠のいのちの希望」、そして「キリストの再臨と神の国の到来」という神の大きな救いのご計画について約束されました。このイエス様のお約束を理解し、待ち望む生活を送っているかが問われています。

キリストのご再臨はいつかわからりません(13)。しかし、私たちの生活はいつキリストがこられてもよい生活であることが求められています。

「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示22:20)

第2に.キリストのご再臨を待ち望む生活は特別な生活ではありません。いつものように心穏やかに日々の生活にいそしみ、いつものように仕事に励み、学びに励み、愛に生きるのです。宗教改革者のルタ−は、「私はいつものようにリンゴの樹の苗を植える」と言ったそうです。

「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい。兄弟たちよ。」(2テサロニケ3:11−13)

第3に.あなたにとって必要な油の用意を振り返りましょう。

油がなにを意味するのか、多くの解釈があります。けれども大切なことは、キリストの再臨を待ち望む信仰の日々の生活の中で、あなたが切らしてしまっているものはなんだろうかと、自己チェックをして振り返ってみることではないでしょうか。最初のキリストへの愛は、宣教への情熱は、隠れたところで祈る密室の祈りは、友のための執り成しの祈りは、最高のものを神様に捧げたちと願った献金の志しは、みことばへの乾きは、聖書通読の良い習慣は今も保たれているだろうか、聖霊の満たしは心にあふれているか、御霊の導きに素直に従っているだろうか、兄弟姉妹との交わりは、病床の中にある兄弟姉妹のもとへ訪問しているだろうか、などなど・・・、イエス様は細き声をもって私たちにささやいていらっしゃるのではないでしょうか。

明かり(ランプ)は目に見える信仰の生活とすれば、油とはそれを生き生きと輝かす内的な力を指すことになります。神様は私たちの外側ではなくいつも内側に目を注いでおられ、私たちの内なる人を愛され喜ばれます。あなたの内なる器に油は十分でしょうか。

ご聖霊はいつでもあなたの足りなさを満たしぬいてくださる恵みの力といのちにあふれています。心へりくだって祈り求めるならばいつでも十分にみたしてくださるおかたとしてあなたのそばにともにおられることを心に覚えましょう。

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。