2009年度説教 11月22日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「愛が冷えてゆく時代」

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。
この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、
それから、終わりの日が来ます。
」(マタイ24:12−14)

アメリカ映画には世界の滅亡を主題にした映画が多く見られます。地球外生命体の侵略による破滅、天変地異による破滅、核戦争や新型ウィルスによる破滅などが主なモチ−フとなっています。こうした映画が多く作られる背景に、欧米の世界観の土台に聖書の予言に基づいた「終末思想」があり、天地創造という歴史の始まりとキリストの再臨による終末という歴史の終わりが直線的な歴史観として設定されていることが大きな影響を与えていると考えられます。

1.

弟子たちがイエス様に「いつ世の終わりがくるのでしょう。どんな前兆が見られるのでしょうか」と尋ねてきました。そこでイエス様は 終わりの時に関しては父なる神様だけが知っておられる(マタイ24:36)ことでありゆだねるしかないが、どのような信仰的な態度で終わりに時代に生きることが望ましいかを話してくださいました。

1.不安が社会全体を覆うような暗い時代には偽予言者や偽キリストがつぎつぎ現れるが、「惑わされないように」      (4.11)。

2.民族間の紛争や、国家間の戦争といった不安定な政治情勢に飢饉や大地震といった天変地異などの大規模災害が重なって、社会は大混乱に陥るが、「あわてないように」(6.7)。

3.   社会が混乱すれば自分のいのちや生活を守ることで精一杯となり、隣人への愛が冷えてゆく無情な世の中になるが「つまずかないように」(10)と教えました。

4.  さらに、反キリスト教的な強力な政治的指導者や宗教指導者が現れて、キリスト教会やクリスチャンに対する迫害がおきるだろうが、試練と苦難を「耐え忍ぶように」(13)と命じられています。

「まどわされず」「あわてず」「つまずかず」そして「堪え忍ぶ」という4つの信仰的な態度をイエス様は求めました。そしてこのような態度で最後まで「堪え忍ぶ」者はかならず救われると約束してくださったのです。イエス様の弟子たちや初代教会にまさにこのような苦難にやがて歴史的に直面してゆきました。イエス様の預言は弟子たちや初代教会を対象にしているだけでなく、終わりの時代のすべての教会とクリスチャンに対する語りかけとなっています。

2.

では、教会は終わりの時代に「堪え忍んで」何を行うのでしょうか? イエス様は「福音が全世界に伝えられ、すべての国民に証しされた後に来る」(14)と語られました。

このことばは福音の宣教と終末とが密接に関連していることを意味しています。終末は教会による宣教と結びあわされており、教会による福音の宣教の進展が神の国の完成をもたらすとも理解できます。福音を宣教する終末的な意義がここに記されており、苦難の中で教会は「福音宣教」という本来のミッションを再確認してゆくのです。

けれども終末時代の宣教には大きな壁が立ちふさがります。それは直接的な迫害が生じることもさることながら、「終わりの時には不法がはびこり、愛が冷えてゆく」という「愛無き世界の拡大」、「こころの荒廃」が極端に加速する状況が預言されていることです。教会は数々の迫害の嵐の中をくぐってきました。そして迫害が強まれば強まるほど宣教は廃れるどころかかえって大きく進展するという事実を記録してきました。ところが「愛が冷え切ってゆく」時代はいまだに経験をしていません。愛の価値が失われてゆく世界とはいったいどんな世界なのでしょうか。それは私たちの想像をはるかに超えた世界だと思います。最近、薄気味悪い事件が増えています。人間とは思えないような残忍な手口の殺人事件が多く、犯人がつかまっても罪を悔いる様子もなく平然としている姿にいいしれない恐ろしさを覚えます。罪の自覚が失われ、悔い改めも意味をなさない、神様を愛する愛も自分を愛する愛も隣人を愛する愛も、冷え冷えと廃れてゆくそんな時代が来るとしたら恐ろしいことだと思います。

キリスト教の伝道の力は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(22:39)と先週、学んだように、「隣人への愛」「失われゆく人々への愛」が常に原動力になっています。それは父なる神様の罪人をあわれみひとりも滅びることなく永遠のいのちを持つようにとの救いのみこころと思いを一つにしています。

主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

「この世の中で起きていることは教会でも起きてくる」という現実を私たちは否定できません。たとえば人口の少子化は教会学校の生徒の激減と衰退と結びつき、高齢化の波はそのまま牧師の高齢化と引退そして無牧教会の急増問題と直結しています。長引く経済不況は教会の財政的危機を招いています。以前、ある大きなカトリック教会に行った時、会堂の中に「持ち物にはご注意ください」と壁紙がはってあるのを見て驚き、教会も対応に苦慮しているのだろうなと感じました。

教会の中で愛が冷えていったらその時には何がおきるでしょうか。神様への愛のかけた礼拝とはいったいどんな礼拝でしょうか。兄弟姉妹への愛の冷えた交わりとはどんな交わりでしょうか。失われゆく人々への愛の無い宣教とはどんな伝道でしょうか。愛が冷えてゆく・・それは教会が根本から崩されてゆくような霊的な危機に直面することを意味します。

3.

しかし私たちは「全世界に福音が宣教されそして終わりが来る」とイエス様が言われたお約束の中に確かな希望を見る思いがします。それは愛の冷えてゆく時代の中で、人間的な愛に基づいた伝道ではなく、聖霊の愛に満たされた者たちによる宣教がなおも前進してゆくことを指し示しているからです。御霊の愛に満たされてた教会やクリスチャンによる福音の宣教が全世界に進展してゆきついに終わりの時、すなわちイエスキリストにおいて新しい天と地が到来する御国の完成の時が実現するからです。

「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
                     神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ロマ5:5)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロマ8:35)

愛の冷えてゆく時代の中にあって神の愛は聖霊を通して決してかわることなく注がれてゆくことが約束されています。御霊の愛にとらえられた教会による宣教が試練と苦難の時代にあってもなおも前進し続け、ついに終わりの時(完成の時)がくることが約束されています。終わりに時代、愛が冷えてゆく霊的な危機の中で、御霊の愛が教会の宣教の使命を根底から支え抜いてくださるのです。

人間的な愛が冷え固まってゆくような時代の中で、御霊の愛に満たされた者たちの宣教と証しのみわざが貫かれ実を結んでゆくことが預言されているのです。救いの灯火は決して消え去ることがないのです。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、
                   責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)

この一年間の教会の宣教を振り返ってみましょう。

地域社会への伝道はどうだったでしょうか。地域教会と協力をした地域への宣教はどうだったでしょうか。海外宣教への協力はどうだったでしょうか。家族伝道は実を結んでいるでしょうか?職場や地域における友人知人たちへの伝道はどうだったでしょうか。子供たちへの伝道はどうだったでしょうか。老人や病床にある人々への伝道はどうだったでしょうか。中学生・高校生・大学生への伝道は? 婦人たちへの伝道は? 壮年層への伝道はどうだったでしょうか。心の病んだ人々への伝道はどうだったでしょうか。 

あなたは御霊に満たされ、御霊に導かれ、福音の宣教にいそしむことができましたか。あなたの中で隣人への愛は冷えてきていませんか。 御霊の愛がかわることなく熱く燃えているでしょうか。自分を見てがっかりしないでください。自分に失望しないでください。聖霊のみがかわることなく私たちの心に神の真実な愛を注いでくださるお方なのですから聖霊の愛の注ぎを待ち望みましょう。

クリスチャンの心にも、ノンクリスチャンの心にも、届くのは「御霊による真実な愛」であることをこの朝、心に覚えましょう。

「私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。」(コロサイ1:8)       

                      神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。