2009年度説教 11月15日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「隣人と他人の境界線を越えて」

       そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である    
     主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
いう第二の戒めも、それと同じようにたいせつです
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
(マタイ22:37−40)

今朝は、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」といわれたイエス様の教えを学びます。

イエス様のもとに一人の律法の専門家がやってきて「モ−セが教えたいましめの中で大切な戒めは何ですか」と質問しました。当時、旧約聖書の教えの中には「なすべき戒律」が248,「してはならない戒律」が365,併せて613の戒めがあると解釈されていました。その中のどれが一番重要な戒めですかと彼は質問したのです。神様のみこころでもある戒めの中に優劣をつけて人間的に判断すること自体がすでに彼らの大きな過ちといえます。そこでイエス様は旧約聖書全体の中から2つの戒めを浮かび上がらせたのでした。第1に「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(申6:4−6)というユダヤ人が毎日3回は唱える有名な戒めを挙げました。「心と思いと知力を尽くして」とは「私たちの全存在をかけて」神様を愛することを意味しますが、全身全霊を傾けて神様を愛することを求めている戒めでしたから、律法の専門家にもまったく異存はありませんでした。

ところがイエス様は続けて『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』(レビ19:18)という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」と言われました。神を愛することを教えた戒めと隣人を愛することを教えた戒めとをイエス様は一つに結びあわせたのでした。

さらにイエス様は「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(40)と強調されました。「かかっている」という言葉は「ちょうつがいによってドアと柱がつながれているような状態」を指すそうです。この二つの愛の戒めというちょうつがいによって、旧約聖書に記されたすべての戒律が1枚のドアのようにつなぎとめられているのです。もし、ちょうつがいが壊れていたり、一つしかなかったらドアを閉めることも空けることも難しくなります。ドアが壊れたり、はずれてしまって出入りが困難になることも考えられます。ですから、この2つの戒めが健全に機能してこそ他の613のすべての戒律も生きてくるといえます。

イエス様はこのように2つの戒めを結びあわせることで3つの点を強調されました。

第1に神を愛する「縦の愛」と隣人を愛する「横の愛」とは一体であり分離してはならないことです。

ひとつの愛に私たちが生きることが求められています。なぜならば神様への愛と隣人への愛が分離してしまいやすいからです。神様を愛しているといいながら兄弟を憎んでいるようでは愛がひび割れ、分裂してしまっています。それはホ−リスティック(統合された)愛のありかたからは離れています。同様に信仰と生活が分離してはなりません。日曜日だけのクリスチャンではなりません。もちろん完璧さや完全さを神様は私たちに要求しているわけではありません。大きな真珠も小さな真珠も真珠として美しさを輝かせているように、統合された愛に生かされることが尊いのです。

第2に神を愛する愛と隣人を愛する愛は、別の愛ではなく、ただ一つの「アガペ−」の愛すなわち「惜しみなく施す無条件の愛」と強調されています。

神様が私たちを愛してくださる愛は「アガペ−の愛」でした。愛されるに値しないような罪ある者のためにイエス様は十字架の上で身代わりとなって恐ろしい刑罰を受け、罪の赦しをもたらしてくださいました。一方、私たちが示す愛にはエロスの愛(異性間の恋愛)、フィレオの愛(友情や家族の愛情)もあり、さらには、「無関心」「無視」という愛の反対語にして最大の罪もあります。そして私たちが示す愛にはつねに限界が伴っています。その限界とは、愛するに値する者は愛するけれど、そうでない者には冷たくあしらい無関心を装い、時には捨て去ることさえもあるというエゴイズムです。

みなさん、私を含めてお一人一人が自分の人生を静かに振り返ってみた時、どれだけ多くの友を悲しませ、傷つけ、裏切り、切り捨ててきたことでしょうか。自分を弁護し守るために・・。人間なんだからそれも許されるとごまかしてはいないでしょうか。これも愛、あれも愛、愛はいろいろと神様は願っているわけではありません。愛には一つしかありません。人間の愛を神格化しないで、神の愛の前には人間の愛は損得計算や打算やエゴイズムと切り離せない不完全なものであることを素直に受け入れましょう。愛の無い者を「神の愛で満たしてください」と謙虚に祈りましょう。愛において傲慢になることは無関心と同様に最とも大きな罪といえるのではないでしょうか。

第3に隣人を愛する愛の質に大きな変化をイエス様はもたらしました。

まずイエス様は「隣人」ということばの定義を変えました。ユダヤ人にとって隣人とは同じ民族仲間を指しました。少し幅を広げればユダヤ教に改宗した外国人も含まれましたが、それ以外の人々は「異邦人」を呼び、自分たちと一線を引いて切り離していました。さらに同じユダヤ人であっても、取税人や遊女や病人はもはや「隣人」ではなく「罪人」と見なし差別しました。ところがイエス様はそのようにして罪人と呼ばれていた人々を「隣人」と呼び、「失われた人」と見なし、まことの父なる神様のもとへ導いてくださったのでした。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:43−44)。このように、イエス様は自分の敵さえも隣人と見なしておられます。いいかえればイエス様の目にはもはや「他者」という存在はどこにも存在しなかったのです。

同様にクリスチャンの辞書の中にも「他人」ということばは存在しません。「隣人」のみが存在しているのです。すべての人があなたの隣人となるのです。仏教では「一期一会」「袖振りあうも他生の縁」という社会的なつながりを尊ぶことばがありますが、「出会った人はみなあなたの隣人」とイエス様は語っておられます。あなたが愛を示さなくても良い人間はどこにも存在していません。もちろんだからといって「おせっかあい」(押しつけの愛)をする必要まではありません。というのは独りよがりの押しつけの愛は重荷にすぎず相手を束縛してしまうからです。イエス様は「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)と愛の節度を教えてくださっています。

次にイエス様は「自分を愛するように」という新しい基準を用意されました。

律法学者たちは「誰をどのような基準で愛すればよい」のかと議論しました。ところがイエス様は、人間はその利己中心のゆえに、自分以上に他人を愛することができないのだから、自分を愛することが最高点になる。であるならば、自分を愛すると同じ基準で隣人を愛せよといわれたのです。

自分と同じように隣人を愛する関係とは、自分という存在と隣人とはいつでも肩を並べあっている対等の存在であるという自覚を持つことを意味します。つまり人間として対等な関係にあることを理解している状態といえます。対等な関係にあるとは、相手の人格と人権を尊重することにほかなりません。現代において忘れられ、軽視されているのは、一人の人間の存在を認め尊重し、その人格に尊敬と敬意を払うという基本的な愛ではないでしょうか。人が物扱いされ、Beinng(存在)ではなくDoing(業績・結果・成果)が重んじられる価値観が優先する中で、私たちは人と人とは対等であり、自分を愛することと同じ基準で隣人を愛することを学び続けてゆかなければならないと思います。

この世の中には自分を愛するようにといわれても、自分を愛することができない心傷ついた人々が多くいることを私は知っています。自分は親からも愛されなかったほど価値の無い存在だと思い定めて孤独と不安の中で生きている人々が多くいます。おそらく人と人とのつながりが豊かであった時代には、親に代わるような人々が周りに多くいて愛情に満ちた人間社会を形成していましたから、現代のように愛情の飢餓状態に陥ることも少なかったのではと思います。しかし今日のように人のつながりが薄れて「個と孤」の社会になればなるほど、孤独感に悩み、自分の根っこのゆれを大きく感じてしまうことも多いのではと思います。ですから「自分を愛するように」とイエス様が言われたことばは現代人にはますますその重みが大きく感じられることでしょう。つまり、自分を愛するように隣人を愛するゆたかな人間関係を生きるようになるためには、「自分を否定せず受け入れ、認め、赦し、愛する」ことから始めなければならないからです。であればいったい、どのように自分を赦し自分を受け入れ和解してゆくことができるのでしょう。

得ることができなかった愛情や満たされなかった思いを、過去にさかのぼって得ようとしてもむなしさは深まるばかりではないでしょうか。原因や理由を知ったところで誰も過去に戻ってやり直すことはできません。理由がわかったところで納得できるわけではありません。「じゃあ、なぜ、それが私だったの?」という新たな苦しみが生じくる場合も少なくありません。親がすでに他界してしまっている場合はどうしてやり直すことができるでしょうか。さまざまな心理療法やカウンセリングが用意されていますが、残念ながら特効薬があるわけではありません。

私は心から信じています。人にではなく神様の中に、人間の愛情の中にではなく神様の愛の中に、希求している愛を見いだし経験してゆく以外に救いと癒しはないと。

罪人であるにもかかわらず神様から大切な一人の隣人として愛されたというキリストの十字架の恵みを深く味わってこそ、人は生きることができるのです。キリストの愛、十字架の愛と赦しを知ってこそ、人は癒され救われ健やかに健全な愛に生きることができるのです。揺らいでいる根っこの部分にしっかりと愛と赦しが供給されてはじめて根っこ(基盤)が安定します。そうです、「たましい」に平安が訪れるのです。安心・安息・平安が訪れたとき、「わたしはわたしでここに生きていていいんだ」という自己受容と自己信頼が生まれてくるのではないでしょうか。こうして自分を受け入れることができて初めて、他人を隣人として受け入れることが可能になると思います。

永遠の真実な愛をもって私たちが生まれた時からともにおられたあなたの創造主である父なる神様の変わらぬ愛を知ってください。自分のいのち以上にあなたを大事にしてくださり十字架で死なれたあなたの救い主イエス様の大きな愛を知ってください。救いと癒しはここにあるのです。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。

わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)

                      神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。