2009年度説教 10月4日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「赦すこと赦されること」

あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、
このようになさるのです。」(マタイ18:35)

私の親しい牧師が家族でラ−メンを食べに行ったところ、小さな娘さんのどんぶりにナルトが残っていたので「食べ残したんだろう」と思い、横から箸でつまんで食べてしまったそうです。すると娘さんが急に大声で泣き出したので彼はびっくりしてしまいました。娘さんは「私が最後に食べようと思って残しておいた大事なナルトをパパが食べちゃった!」とおかんむりです。それからはどんなに謝っても赦してもらえなかったそうです。「食べ物の恨みは怖いな・・」とこぼしていました。食べもののうらみばかりでなく、人のあやまちを赦すことはとても難しいことですね。考えれば赦すことばかりでなく赦されることも両方とも本当に難しいことだといえます。人間の苦悩の一つがここにもあります。みなさんはいかがでしょうか。

1 ペテロの質問

ペテロがイエス様のもとに来て質問しました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(21) おそらくペテロと一人の弟子たちの間でなにかイザコザが生じたのではないでしょうか。ペテロは「7度、赦せばいいでしょうか」と質問しました。当時ユダヤ教の教えでは、「罪を犯した相手を3度赦す」ようにと律法教師によって教えられていました。ですから7度も赦せば非常に立派な態度とみなされるとペテロは思ったのかもしれません。するとイエス様は「7度を70倍するまで赦しなさい」(22)と命じました。イエス様の意図は、490回までという計算上の数字の問題ではなく、「赦しに徹する」という基本的姿勢にありました。「どこまでも赦しなさい」「赦しに制限や限度はありません」と弟子たちにたとえを用いて懇ろに語られたのでした。このたとえ話の結論としてイエス様はこのように締めくくられました。

「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(35) 

イエス様は回数の重要性ではなく「心から」という態度の重要性を強調されたのでした。

2  罪人への赦しと愛

さて、イエス様は、多額の負債を負った僕に対して王様が総決算を求めたたとえ話を語りました。

「もうけたり損をしたり」するのは商売の常であり、儲かれば利益が還元され、儲からなければ給与もボ−ナスもカットされます。そして決算期には「負債の総精算」が求められます。

同じように私たちの人生にも「精算の日」がくることを聖書は教えています。私たちの生き方や人生をしめくくる総決算書を神様の前に提出する日がくるのです。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

調査の結果、王様に1万タラントの負債を生じ甚大な損失を与えたことが明白になり、しもべは王様の前に連れ出されました。1万タラントとはどれぐらいの負債額かともうしますと、1タラントは6000デナリを指し、当時の労働者や兵士の1日の給料が1デナリ(マタイ20:2)とされていましたから、1万タラントはなんと20万年分の給料となります。およそ8000億円に相応しますから、途方もない金額です。もはや個人では返済不能額と言っていいでしょう。

王様は、妻や子供を奴隷に売って負債を返せと命じました。当時、身分の高い人が妻子を奴隷に売ってまで負債を返済するという例はなかったそうですからこれは想定外のたいへん厳しい処罰だったといえます。

人生の総決算書を神様に提出するとき、私たちの安直な思いを越えた、厳正で厳粛な罪に対する神の審判が宣言されるという怖れや緊張感を失ってはなりません。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6:7)

妻や子供まで奴隷に売り飛ばして返済せよと命じられたしもべは、震え上がり、哀れみを求め懇願しました。簡単に赦してもらえるはずなどあり得ないのに、驚いたことに、王様はしもべを「かわいそうに思って」、彼を赦し、負債を全額免除にしてくださいました。もちろん妻子の命も守られました。これもまた予想をはるかに超えた信じがたい出来事でした。

この赦しは神様の一方的な「あわれみ」(マタイ9:36)を指しています。あわれみという言葉は「おなかの底からわき出てくる強い感情」を指すことばであり、神様の深い哀れみ・慈悲を指します。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ2:4−5)

このたとえ話は、「罪」に対する神の義の審判の厳しさと「罪人」に対する神の深いあわれみを見事に象徴しています。神の愛と恵みは海よりも深く、山よりも高いのです。神の愛は罪人に注がれているのです。

3 互いに愛し合いなさい

ところがこのたとえ話には続きがあります。人間の愚かさ、強情さをなまなましく描き出しています。1万タラントを赦されたしもべが家に帰る途中で、100デナリの負債を返さない仲間を見つけるやいなや、彼の首を絞めて借金を返すように暴力をふるいました。8000億の負債を無条件で赦されながら、100万円の借金をした仲間を赦すことも返済を猶予することもできなかったのです。彼が「待ってくれ」と懇願したにもかかわらずひとかけらの同情も示さず、牢獄に入れてしまったのでした。その様子を見ていた周りの仲間はみな「心を痛め」ました。「仲間が心を痛めるほどの」(31)愛の無い非情な行為でした。彼の冷酷な態度はやがて王の耳にも入り、逆鱗に触れることになり、彼は再び王の前に連れ出され、厳しい処罰を受け、投獄されてしまいました。

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』」

(マタイ18:33)

王様の赦しの心を理解できない者への悲しい思いがこのことばには込められています。

このたとえ話しは、イエス様を信じる弟子たちに向かって語られています。対象はあくまで「兄弟姉妹や仲間」と呼ばれるキリストを信じる共同体のメンバ−です。

天の父なる神様はそのひとりごであるイエス様を十字架にかけ、彼の身代わりの死をもって、私たちの罪を償い、精算し、無条件の赦しを差し出してくださいました。自分の力ではとうてい返済できな大きな罪の負債をキリストは十字架の上ですべてご自身の死をもって返済してくださったのです。このような大きな赦しを経験しながら、もしクリスチャンが信仰の仲間の罪を赦さないならば、彼は「悪いしもべ」(32)と呼ばれるほど大きな罪を神様の前におかすことになります。

王はしもべに「あなたもあわれむべきである」と命じました。クリスチャンにとって兄弟を愛すること、赦すこと、深くあわれることは「義務」とされています。イエス様が弟子たちに与えられた唯一の戒めは「互いに愛し合う」ことでした。戒めですからこれは「愛の義務」であり、「愛し合うべき」であると強調されています。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」(第1ヨハネ4:20−21)

イエス様が教えられた兄弟愛は、その後のすべての教会とクリスチャンにとって普遍的な唯一の愛の戒めとして大切に守られてきました。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:12−13)

「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」このパウロの戒めは、イエス様がたとえ話を通して語られた教えに基づいています。

ナルトを食べてしまったお父さんを簡単には許せなかった少女のように、人を赦すことはなかなか難しいことだと私たちも実感します。私たちも「あの人のあの行為だけは赦せない」と、顔が浮んでくる人が数人はいるのではないでしょうか。ましてや、罪を犯しながら反省の色、一つ見せないような人を一方的に赦せといわれても「どうして」と反発を覚えてしまうのではないでしょうか。たとえ相手が心から謝って赦しを求めても、こちらにまだ受け入れるだけの心の準備ができていなければ、赦すことはいっそう難しくなります。相手が謝っているのにそんな相手を赦せない自分を赦せないことに強い葛藤を覚えて苦しむことにもなります。無条件の赦しなど理想論にすぎないのでしょうか。

4 悔い改めに導きなさい

実は、ルカの福音書では次のように教えられています。

「あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい」(ルカ17:3)

ここでは、罪の赦しの前に「彼をいさめること戒めること」と「悔い改めたら」赦すことが条件となっています。マタイが「赦しには限度はない。赦しなさい」と原則的な根本精神を明確に告げ、ルカはその精神に立った上で具体的な対処と手順について教えているといえます。

無条件の赦しの前に、しっかりと相手と向き合い、そのあやまちを率直に伝え、愛をもって正し、悔い改めに導くことが強調されています。兄弟愛がここで育まれ分かち合われ、その上で、相手が赦しを求めて来た場合には無条件で赦しなさいと教えられているのです。放任は愛でもなく赦しでもありません。心が通い合った上で、赦しが成り立つのです。

諫めても、正しても、なおも受け入れない場合はどうしたらいいのでしょう。少なくとも怒りに任せて復讐してはならないと聖書は教えています。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」(ロマ12:19)

さらにイエス様は、敵のために祝福を祈れと教えています。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、
わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」
(マタイ5:43−44)

あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)

このような心が根底に流れているならば、おのずと赦しに生きる信仰のあり方が、一人一人に聖霊によって導かれるのではないでしょうか。

羽鳥明先生がアメリカに留学していた時、老教授の講義に反発し、激しい議論の末、やりこめたそうです。当時は得意になっていましたが、後になって自分がどんなに傲慢であり不遜であったか、神様の前で悔い改めました。羽鳥先生は赦しを求めるお詫びの手紙を教授に出しました。すると1枚のカ−ドが届けられたそうです。そこには、「私は赦します。忘れます。永遠に。」(フォ−ギブ、フォ−ゲット、フォ−エバ−)と3つの言葉が記されていたそうです。「赦すだけでなく忘れます、永遠に」という老教授のカ−ドの中に、羽鳥先生は十字架の愛を深く経験したそうです。

「互いに愛し合いなさい、ゆるしあいなさい」という根本精神と「正して悔い改めに導きなさい」という具体的対処が統合され一つとなって、私たちが真の意味で愛に生きることができるようになると思います。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)

                   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。