2009年度説教 9月6日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」


題「人生の転機」

「 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」
(マタイ17:1-2)

「私たちの人生には3つの坂があるが二人で一緒に歩き続けましょう。それは上り坂・下り阪・そしてまさかです」と結婚式などのスピ−チでしばしば話されます。シュロスバ−グという社会学者は私たちの一生には就職・離職・結婚・出産・離婚・死など「人生の転機」(トランジッション)と呼ばれる大きな出来事が起こるが、その転機に際してどのように対処したかによって個人の人生観や生き方が大きく変えられるといいました。転機は変化と成長をもたらすと彼は強調しました。そして転機には「予測していた転機」「予測していなかった転機」「予測していたが起こらなかった転機」の3種類があるといいました。登り阪・下り阪・まさかの時をどう歩むかという日本の諺に通じる大切な考え方だと思います。みなさんは自分の人生の転機や節目に際してどのように対処してこられたでしょうか。

イエス様の弟子たちも信仰の歩みに従って「人生の転機」を迎え、そのたびごとに多くの失敗を重ねながらも着実に変化と成長をとげてゆきました。今日の聖書の箇所はそういう意味で弟子達にとってはたいへん大きな「変化と成長のための転機」になったできごとでした。

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(16:21)

イエス様は弟子たちにご自身の苦難と十字架の死、さらに復活について徐々に話し始めました。イエス様の教えについて来れなくなって離れ去る弟子たちも少なくありませんでした。そこでイエス様は弟子達の教育に力を入れ始めました。特に今回は3人の弟子達を特別に選んで彼らを連れて山に登り、特別教育を実施しました。

1 イエス様の変貌

さて山頂付近で驚くような出来事が起こりました。弟子達が親しみ慣れたイエス様の姿が突然変わり、顔は輝き衣も太陽のように白く光り出したのです。

姿が変わることを変貌とか変身と呼びます。たとえば自然界の中でも葉っぱの上の青虫が蝶々に変身をしたり、水中のヤゴがトンボに変身したりすることがあります。けれどもイエス様の場合、変身したというのではなく本来の輝かしい栄光のお姿を弟子たちに特別に啓示されたのでした。

イエス様は神のひとり子としての栄光に充ち満ちておられましたが、その栄光を捨て去り、低くなり人間の姿をとって、この世界に来てくださいました。その目的は十字架で身代わりとなって罪の刑罰を受け、人類の罪を償い、キリストの十字架の死を信じる者に完全な赦しをもたらすためでした。ですから普段、弟子たちが見ているのは「人となられた神の御子」の姿でしたが、このときには、人間の目には隠されていた霊の世界の扉が開かれ、イエス様の真のお姿が明らかにされたのでした。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
(ピリピ2:6−8)

弟子達の多くがイエス様から離れ去ってゆくなかで、ペテロは「私たちはあなたから離れて、どこへゆくことができるでしょうか」(ヨハネ6:19)「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と信仰の告白をしました。この信仰を告白する者たちによってイエス様はご自分の教会を地上に建てあげ宣教の奉仕そ進めることを願われました。

イエス様への信仰告白をより確かなものにするために、3人の中心となる弟子たちに本来の栄光に満ちたお姿をお示しになられたのでした。

2 モ−セとエリヤの現れ

イエス様が山の上で神のひとり子としての栄光の姿を示されたとき、ペテロやヨハネやヤコブの眼前で「天の国」の扉が開かれ、霊的な世界が開かれました。旧約を代表する2人の人物、モ−セとエリヤが現れ、イエス様と話し合われていました。ユダヤ人にとって、モ−セとエリヤとキリストが並んで語り合っている姿は感動の極みであったと思われます。

もっとも写真も絵もない時代に、弟子たちにそれがモ−セとエリヤだとなぜわかったのか私にもわかりませんが、このことは、私たちがやがて天国へ行ったときに天国で出会う人々がどんな栄光の姿・復活の姿に変えられていても相手をちゃんと認識できる特別な能力が与えられる一つの例かもしれません。幼い子供を天国へ送った人々には大きな慰めとなることでしょう。

他の解釈として、モ−セは旧約の律法を代表し、エリヤは預言を代表しているとも考えられます。つまり、旧約の本随である「律法と預言」を完全に成就する救い主としてイエス様の存在が明らかに啓示されたと考えることができます。

彼ら3人がこのとき一体何を話していたのか興味深いところですが、ルカ9:31で「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた」と明らかにされています。

都エルサレムでの最後とは、十字架の死を意味します。イエス様は十字架の身代わりの死は、父なる神様のみこころに沿った、永遠の救いのご計画の中心であることを確認し、十字架の死を引き受け、自ら進んで十字架の道を選ばれたと理解することができます。

この時ペテロは話されている内容に関心を寄せたのではなく、モ−セとエリヤとイエス様が並んで話し合っている「光景」に感動し、興奮しました。ですからモ−セとエリヤがまさにイエス様から離れ去ろうとする時、この霊的な感動がいつまでも続くように、さらにここに長く住んでもらうことができるように「小屋」を建てましょうと言いだす始末でした。自分でも何をいってるのかわからなかった(ルカ9:25)とありますから冷静さを失っていたのでしょう。

宗教的な特別な雰囲気や神秘体験といった非日常的なできごとに多くの人々が興奮し群がり熱狂します。しかしそこには宗教の持つ落とし穴や魔力がひそんでいる危険性もあります。集団心理が働き、人が操作されてしまう場合も少なくありません。弟子達の人間的な欲求を消し去るかのように濃い雲が沸き上がって彼らの姿を覆い隠してしまいました。神様の御心は、弟子達が非日常的な経験を追い求めることではなく、日常生活のただ中で、「イエスの声に聴き従う」生活を歩むことにありました。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

3 父なる神様の声

わきあがった雲の中から弟子たちに「これは私のあいする子、これに聞け」との父なる神様のおごそかなことばが響いてきました。彼らは恐れて顔をあげることができず地にひれ伏しました。イエス様の変貌、モ−セとエリヤの出現に続く3番目の神秘的出来事でした。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(17:5)

やがて彼らが目をあげるとそこにはいつもの姿のイエス様だけがおられ、もはやイエス様以外、だれも見ることができませんでした。

イエス様の弟子たちにとって神秘的な雲も、父なる神の厳かな声も、モ−セやエリヤも必要ありません。十字架で死なれたイエス様だけをしっかり見て、イエス様の語られた教えに従うことがすべてなのです。父なる神様がペテロ、ヨハネ、ヤコブに求められたことはただ一つでした。

「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(17:5)

ペテロは後にこのときの体験を次のように語っています。

「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。「キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(2ペテロ1:16−18)

イエス様の栄光と威光と尊厳を特別に見ることが許された山上の神秘的出来事は、彼らの信仰生活の一大転機となったに違いありません。多くの群衆が期待するような政治的な救い主ではなく、十字架にかかり全人類の罪を引き受け十字架で死なれた救い主を信じる信仰が深められ強化されたことでしょう。

特別な神秘的興奮体験を求めるのではなく、日常生活のただ中で、自分に託された仕事や役割を自らが負うべき十字架として負いながらしもべとして忠実に誠実にその努めを果たし、落ち着いた生活を過ごす大切さを学んだことでしょう。

また多くの悩みや苦悩や葛藤が、海の波のように次々と押し寄せては返すこの世のただ中で、「ただキリストだけを見て」、「ただキリストの声に聴き従う」という、弟子の道をいよいよ歩き始めたことでしょう。

私たちも今、ここで、イエス様だけを見あげ、ただイエス様の教えをだけを聞き、学び、その導きに従い歩んでまいりましょう。

「彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった」(マタイ17:8)「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです」(ヨハネ5:25)

                   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。