2009年度説教 7月26日 礼拝
「主イエスの弟子シリ−ズ」(4)


題「伝道と迫害」

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、
たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀は
一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの
父のお許しなしには地に落ちることはありません。」マタイ28:28−29

イエス様は12人の弟子達をガリラヤ地方の短期宣教の実地訓練に派遣されました。弟子とは「学ぶ者」という意味を持っており、イエス様の弟子とは「イエス様に聴いて学ぶ者たち」を指します。そして弟子たちはイエス様のそばにいつまでもいるのではなく、イエス様によって福音を宣教するために「派遣され」て行くのです。今日の箇所には派遣される弟子たちの心得が記されています。最初に取り上げられている心得は「迫害」に対する姿勢についてです。なぜならば福音の宣教には迫害が伴うからです。

1 宣教と迫害

「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」(16)

狼の中に羊を送り出すようなものだから、「蛇のように賢く鳩のように素直であれ」とイエス様は諭しました。イエス様は宣教の働きには、困難と苦難さらには迫害が伴うことを理解しておられました。

羊は武器をもっていない無力な動物ですから、もし狼に襲われたら円陣を組んで真ん中に子羊を置いて守る以外に術をしりません。弟子達は羊同様に無力な存在ですが、キリストによって「派遣」されることの中に権威と力が備えられています。ガリラヤ地方に短期間の宣教に派遣された弟子達はこの後さらに経験を繰り返し、ユダヤサマリヤの全土さらには地の果てにまでキリストの証人として福音を宣教するようになります。ですから、イエス様のガリラヤ伝道に関する教えは、広く世界宣教に遣わされてゆく教会への普遍的な教えとして位置づけることができます。

宣教はこの世の支配者であるサタンとの霊の戦いであり、私たちが「光の戦士」として召されたことを意味します。福音宣教を妨げ、クリスチャンを迫害する暗闇の力の根本にはサタンの存在があり、伝道はサタンとの戦いを意味します。パウロはこれを以下のように表現しています。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)

ですから、もしあなたのご主人があなたの最大の迫害者だったとしても、ご主人を個人的にうらんだり憎んだりしてはなりません。真の敵はサタンであり、真に戦う相手はご主人ではなくサタンだからです。最大の迫害者はサタンであり、むしろご主人はあなたに愛され、祝福を祈られるべき存在なのです。戦う相手を見誤って、失望して執り成しの祈りを放棄してしまってはなりません。

サタンの闇の働きに対して「蛇のように賢く鳩のように素直に」対処しましょう。伝道には思慮深さと素直さが求められます。迫害に対してまっこうから立ち向かわなければならないわけではありません。イエス様は一つの町が受け入れようとしないなら「足のちりを払って他の村へ行きなさい」(14)と教えています。「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」(23)、はっきり、「逃げなさい」とも教えています。押してもダメな時は引けばいいのです。無理をしなければ、また時が必ず巡ってきます。かならずしも「殉教」がすべてではありません。初代の教会の中に「殉教」を美化する習慣はありませんでした。無謀な危険に身をおくことは自殺行為にすぎません。家族や親しい人をキリストのもとに導くためには、多くの涙と忍耐と祈りの時間を必要とします。蛇のように賢く鳩のように素直に接し続けてゆくことが求められるのです。

2 語るべきことは聖霊が語る

「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」(19−20)

福音を伝道することによってモ−セの掟に背いたと訴えられてユダヤの宗教議会の場に引き出されることがおきるかも知れません。ロ−マ皇帝の名に逆らったとロ−マ総督や国王の前に引き渡されるようなことがおきるかもしれません。しかし全てが「証し」のチャンスとなりうるのです。議会や王の前に「引き出される」形になりますが、ことばを置き換えればわざわざ相手が一同に集まってくれているのですから、これほどのビッグチャンスはないといえます。そしてその時、過度に恐れなくても折りに適った最善のことばを聖霊が用意して導かれるから、安心しなさいとイエス様は諭しています。

親子のあいだでしばしば見られる光景ですが、お母さんががみがみいつも怒ってばかりいると、やがて子供は反応しなくなります。少しも良くならずお母さんのがみがみがますます強くなって悪循環が始まってしまいます。なぜでしょう。それは子供がなぜ自分が怒られているのか理解できないまま、ただとにかくお母さんの怒りの感情が静まることを待っているだけだからです。

大事なことを子供に伝えたいときは、伝えたい一つのことだけを、子供の目をしっかり見て、伝えれば子供の心に必ず深く届きます。つまり本当に大切なことは言葉以上のものによって届けられるからです。一般には気迫とも真心とも熱意とも本気度ともいいます。通常の知識伝達ではなく、心から心に、魂から魂に届くル−トがあるのです。

イエスキリストの福音の言葉にはキリストの御霊が働きます。そして聖霊が豊かに働くときに聴く者の心にキリストの言葉は届きます。聖霊は大胆に語らせてくださると同時に、聖霊は聴く者の心をも開いてくださいます。ですから、語るべき言葉は、聖霊が語らせてくださるから恐れてはならないとのイエス様のことばに信頼をおきましょう。

ある牧師先生は大きな集会の前に自分の書いた証しの原稿を一生懸命、暗記している姉妹を見つけました。その牧師はにこやかに彼女に近づきその原稿を取り上げて破ってしまいました。そして彼女に語りかけました。「語るべき言葉を聖霊が備えてくださいます。聖霊に信頼しましょう」と。

3 人を恐れず神を恐れる

イエス様は「からだを殺しても魂を殺せない者をおそれるな」(28)と言われました。

永遠のいのちを与える権威をもっておられるのは神様お一人です。人はたとえ肉体のいのちを奪うことができてもその人の永遠の運命を奪い取ることはできません。ユダヤ宗教議会の前に引き出されようと、ロ−マ皇帝の前に引き出されようと、人を恐れる必要はありません。恐れるならば、永遠のいのちと永遠の滅びという永遠の運命を決する権威をもっておられる方を恐れるべきです。

イエス様はたいへんわかりやすい2つの譬えをもって、神様への信頼を固く保つことを教えてくださいました。有名な「2羽の雀」と「髪の毛」の譬えです。

市場では2羽のすずめが1アサリオン(約20円)で売られています。ルカの12:6ではなんとさらに1羽おまけに加えられて合計5羽の雀が2アサリオンで売られています。売り主にしたら1羽の違いなどたいしたことでなく、どうでもいいのです。早く売りきってしまいたいのだと思います。閉店間近では10羽2アサリオンで出血大サ−ビスとして売り出されるかも知れません。いかに価値が低く見られているかわかると思います。それほど無価値な存在であっても、父なる神様のお許しがなければ地に落ちて死ぬことはありません。神様の愛の保護が伴うのです。
そのように無価値な1羽の雀でさえ守られる愛の神様が、どうしてあなたを見捨てたり見限るようなことがあるでしょうか。雀よりもはるかに価値のあるあなたを神様はお守り下さるとイエス様はお約束してくださっているのです。

第二次世界大戦の空襲の激しい頃、イギリスのロンドンで、ある人が飼っていた雀がたいへん有名になったそうです。その雀が、しばしば主人の聖書をくちばしでめくって、ルカ福音書の第12章6節を開いたそうです。なんと「5羽のすずめは2アサリオンで売られているではないか。しかも、その1羽も神のみまえでは忘れられていない」とある箇所です。神様の守りという大きな安心感をもたらす雀として当時、ニュ−スにもなったそうです。

髪の毛さえも数えておられる

皆さんは、自分の髪の毛の数をごぞんじでしょうか。日本人の頭部には、平均して105,000本の髪があるといわれています。そんなにあるものかと驚いてしまいます。1,965年に、ユーゴスラビアに住むライコ・ドシッチさんは友人の髪を根気よく1本づつ数えたそうです。彼が74日かかって友人の髪をすべて数え上げたところ、その数は334,560本あったそうです。1本の毛は100gの重さを、頭髪全体では12トンの重さを支えることができるとされています。これはアルミニウムの強さに匹敵します。京都の東本願寺では、明治初期の建築工事に際し、通常の綱では用をなさない重い建材の運搬移動に、信者の女性が寄進した髪の毛によって作った綱を用いた事はよく知られています。髪の毛は実はたいへん貴重な存在なのです。にもかかわらず誰もその数を知りません。あなたはご主人の髪の数を数えたことがありますか? 数えようとしたことがありますか? 関心がないのかもしれません。

ところが父なる神様は髪の毛の数さえも知っているというのです。神様は無価値な1羽の雀さえ守られるばかりでなく、誰も関心を示さない髪の毛の数さえも熟知しておられます。それほど、あなたを愛しておられます。このお方に信頼をおくならば、何を恐れることがあるでしょうか?

4 イエスの弟子であることを告白する

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(32−33)

クリスチャンの中には自分がクリスチャンであることを隠しているような人がいます。謙虚というよりはむしろ人を恐れている場合がしばしばあります。まわりの人からの非難や攻撃を恐れて自分の信仰を言い表そうとしません。お葬式がキリスト教で行われて初めて「え、あの方、クリスチャンだったの?」と周囲を驚かせる人がいます。確かに葬儀はクリスチャンが奉仕できる最後の「証し」の場となりうることは事実ですが、神様は生きている間に生きた信仰を証しすることを望んでおられると思います。

私たちは「光の子」として召されました。ですからキリストを生活の場の中でことばと行いによって証しをすることが求められています。光をつけてわざわざ覆い隠すようなことは誰もしません。光をつけたらその光を輝かすことが、光を光として生かすことになります。

「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14−16)

人を恐れては、信仰の告白はできません。人を恐れては、伝道はできません。

私たちが住む、京都はザビエルが日本に宣教を開始して以来、日本宣教の中心地でした。京都四条一体はかつては「諸天使たちの住む町」(ロス・エンジェルス)と呼ばれたそうです。長崎26聖人と呼ばれた人々は京都とその近郊に住むカトリック教徒たちであり、京都市内の教会で束縛され、一条戻り橋で耳をそがれ、みせしめのために800qも離れた長崎まで連行されて処刑された人々でした。彼らは喜びをもって「キリストの弟子」であることを告白しました。京都の地にはそのような「信仰告白の歴史」が流れているのです。(関心があるかたは私のレポ−ト(京都のキリシタン信仰)をご覧下さい

語るべきことばは聖霊ご自身が語らせてくださることを信じて、イエス様の恵みの大きさを証しさせていただきましょう。

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。