6月の説教 6月21日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「試練の中の詩としての祈り」

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。あなたを恐れる人々は、私を見て喜ぶでしょう。私が、あなたのことばを待ち望んでいるからです。主よ。私は、あなたのさばきの正しいことと、あなたが真実をもって私を悩まされたこととを知っています。どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。」(詩篇119:71−76)



先日、テレビで50代の夫婦の更年期の乗り越え方を紹介していました。40代後半から更年期が男性女性にも始まり、体調が崩れたり、気分が滅入ったり、気力が出なかったりするそうですが、そのためにお互いのコミュニケ−ションがちぐはぐになり、ますますストレスを高めてしまうという悪循環に陥りやすいそうです。精神科の医者が『夫は妻に「つらそうだね」の魔法の6文字を声かけしてください。男性は解決志向の考え方を身につけているので結論が出ない話を聞くことが苦手ですから自覚しましょう。一方、妻はプライドの高い夫がもし少しでも弱音をはいたら、そのことばの背後には3倍もの重い負担が過糧いることを自覚して、これは「おおごと」だと思ってください。」と助言されていました。お互いがコミュニケ−ションを豊かにすることが結局は、つらさを乗り越えてゆく最大の秘訣であるとまとめておられました。

1 詩人の祈り

クリスチャンにとって祈りは天の父なる神様との「会話」「対話」をさします。祈りは神様と語り合うことであり、神様とコミュニケ−ションを図り、語り合い、神様のみこころを知り、慰めと励ましをいただき、霊的に強められてゆく世界といえます。名前さえ知らない神仏に「ご縁がありますように」と賽銭箱に5円玉を入れて柏手を打つような「祈り」の世界とは大きく異なります。神様と語り合うこと、神様によく知っていただくことがキリスト教の祈りなのです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6−7)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(71)ということばはたいへん衝撃的なことばです。キリスト教の「人生と試練と信仰」の関係を端的にそして感動的に示していると思います。
71節で詩人は確かに、かつてたいへん苦しい試練を通して、神の「御心を学んだ」という深い自己経験を語っています。
しかも、試練そのものが解決できたのかできなかったのかについて何も語られていません。結論がどうであったかわかりません。主題は、たとえ問題が願ったように解決しなかったとしても、「神のおきて」すなわち「神のみこころを学んだ」ことにあります。そしてその御心は「幾千万の金銀にまさる価値あるものでした」(72)と彼が告白しているほどの絶大な価値をもたらしたという恵みにあります。

さらにこの詩人は、神様が私を悩ますことがあったとしても「神は真実であり、神の導きは正しい」(75)ので、「私の慰めとなり」(76)「喜びとなる」(77)と神を誉め讃えています。  

「ある兵士の祈り」とクリスチャンの間で呼ばれている祈りを紹介しますが、自分の願いが聞かれず、自分の思いとはことなる人生であったが、私の人生は満ち足りたものであったとの喜びが語られています。

【神に願った。力をください、手柄を立てる強い力を。けれども私は弱くされた。謙虚にしたがう人になれと。神に願った。健康を、立派なことができるように。けれども弱い体にされた。より良いことをしなさいと。神に願った財産を。幸せな暮らしできるように。けれども貧しさを与えられた。賢く生きる道を知れと。神に願った。能力を、世間のみんなが褒めるような。けれども弱き者にされた。神よ、私を助けたまえ。神に願った。すべてをください。楽しい人生を送るため。けれども命を与えられてすべてを楽しむことを知る。
願ったものは、すべて消えたけど、私の望みは満たされた。こんな私になったけど心の祈りは叶えられた。この世の誰にもまさる幸せ。祝福された私がいます。】

2 試練の中の3つの道

苦難の中に置かれたとき私たちの前には、「3つの道」があります。

第1は、「ただ嘆き悲しみ、感情の海に沈む」道です。私たちが感情をもった存在である限り、試練の中で嘆き悲しむことはごく自然な反応といえます。キュ−ブラ・ロス博士は「悲嘆のプロセス」という有名な論文で、「人は、ショック・否認・怒り・取引・落胆・受容へと進みながら回復する」と提唱しました。息子さんを突然の事故で失い大きなショックを受けた婦人が1年間、涙を流すことさえできなかったことを知っています。受容へいたることができないまま精神的に破綻して心を病んだり、自殺をしてしまう人の数も少なくはありません。

人はロボットじゃありませんからオ−トマティックに感情の切り替えなどできなくて当然です。ゆっくりと時間をかけながら癒しを受け、試練の痛手から回復されてゆかれることも一つの道です。クリスチャンだからいつまでも泣いてはいけない、悩んでいてはいけないと不自然な自己規制をかけることは間違っています。感情の自然な回復を待つことも、主が備えられた道のひとつです。

第2は、「知恵を絞り解決策を考え、少しでも苦しみを軽減することを模索する道」です。

多くの人がカネに頼り、人に頼り、自分に頼って生きています。ゆきづまれば最後に頼ろうとするのが神様となります。順番を変えてまず神様に祈り求めることが大切です。神に熱心に祈り求めた人物の代表例としてヤベツの祈りとアッシジのフランチェスコの祈りを挙げることができます。

【ヤベツの祈り】
ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、 わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。(1歴代4:10)

ヤベツは神様に熱心に祈り求める事によって災いから守られ、苦しみに満ちた状況が変えられ、所有する土地を広げる幸いにもあずかりました。「求めなさい。そうすれば与えられます」との約束に従い信じて祈るならば、祈りが答えられるという祝福の道がヤベツの祈りの中には教えられています。

【アッシジのフランチェスコの祈り】
中世ヨ−ロッパの修道士フランチェスコは次のような祈りのことばを残しています。

彼の祈りの最大の特徴は、相手が変化することを求める祈りではなく、自分が変えられることで相手が変化することを願う祈りです。自らが愛の「触媒」のような存在になることによって、霊的な化学変化を引き起こすことを願う祈りです。外的な変革を求める祈りではなく、内的な変革を求める祈りと言えます。

「ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。
憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように。
争いのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、
闇のあるところに光をもたらすことができますように。
ああ主よ、わたしに、
慰められるよりも、慰めることを、
理解されるよりも、理解することを、
愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
わたしたちは与えるので受け、
ゆるすのでゆるされ、
自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるからです。  アーメン」

第3に、「事実をありのまま受けいれ、その現実から再出発をする」道があります。

事実を否定することなくありのまま能動的な受容しつつ、その中に新しい意味を見いだし再び肯定的な建設的な人生を歩み出す「真の勇気に満ちた祈り」ともいわれています。その代表例として哲学者ラインホ−ルド・ニ−バ−の祈りを紹介します。

【ニ−バ−の祈り】

神よ、
変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。  

変えることのできないものを変えようとするところに執着と悩みが生じます。変えることのできないものを受け入れる「冷静」さとは、「知性」のことではなく「静かな祈りの精神」と言えます。

高校時代に鉄道自殺を図り、一命をとりとめたものの両足と左手を失い、右手も指が3本しか残らなかった田原米子さんという女性がいます。変えることのできないこの現実を米子さんはやがてキリストを信じる信仰と祈りによって受け入れました。やがて牧師と結婚した彼女は母親となり、たった3本しかない指で全ての家事をこなし、二人の娘さんを育て、牧師を助け、多くの諸教会を訪問しては人々を励まし生涯をまっとうしました。彼女は私たちの教会でお話しをしてくださった時、「私は、指が3本しかないのではなく、3本も指があることに気がついた。失ってしまったものを数えているのではなく、残されているものを数えることを、私が学んだときから全てが変わったのです」と語ってくださっていました。米子さんの祈りも、ニ−バ−の祈りと重なり合います。

聖書はこのように教えています。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリン10:13)

試練の中でどのような脱出の道へ神様が導いてくださるか誰にもわかりません。神の導きは実に多様であり、人知を遙かに越えています。しかし、どの道へ導かれようと私たちは2つの事を確信できます。

第1は「キリストの平安」です。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

第2は「ゴ−ルは神の最善以外のなにものでもない」ことです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロ−マ8:28)

どのような脱出の道を神様は導かれるのか誰にもわかりません。しかし、キリストの平安に包まれ、神様が御心の中においておられる最善のゴ−ルへと私たちは導かれることは確かなのです。

真の神様を知らないとき、私たちは 「苦しみにあうなんて私には不幸以外のなにものでもありません。私はそれで神様をうらみました。神様の教えは私にとってあまりに理想的で現実離れしていて、私をかえって苦しめます」と激しくつぶやいたことでしょう。苦しみの中で、自らを振り返ることも知らず、周囲が悪い、世間が悪い、親が悪いと責任を他者に押しつけ、不平や愚痴の中に生きていたお互いかも知れません。

けれども今は、旧約の詩人と共に、心から祈ることができるのです。

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです」(詩篇119:71−72)と。

祈りはこのように私たちを静かな深みのある人生へと導きます。
祈りは私たちの人生の美しい歌となり、詩となるのです。


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。