5月の説教 5月31日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「朝9時の祈り」

「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、
あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
(使徒1:4−5)

1 ペンテコステの日に

今日はキリスト教の暦の上でペンテコステ(ギリシャ語で50という意味)の日となっています。イエス様は十字架で死なれて3日後に復活され、40日間そのお姿を500人以上の弟子たちに示され、エルサレムのオリ−ブ山から天に帰ってゆかれました。それから10日後のユダヤの祭りの日(初夏の収穫祭・律法の授与記念日)に、つまり復活された日から数えて50日目に、約束通りご自身の霊である聖霊を天から弟子たちに注がれました。ですからこの日をキリスト教会ではペンテコステと呼びます。

聖霊に満たされた人々は「イエスは救い主キリスト」であることを宣教し、聴く人々を悔い改めに導きました。その日、イエスを救い主と信じる人々の数は3000人にもなりました。こうしてついにエルサレムに「イエスを救い主と信じる者たちの新しい共同体である「キリスト教会」が誕生したのです。モ−セ以来の長い歴史を持つユダヤ教共同体社会の中に、キリスト教共同体が産声をあげたのでした。ですから、ペンテコステの日は初代キリスト教会の設立記念日とも称されます。

使徒の働きでは、@聖霊と祈りとの関連、A聖霊と宣教との関連、B聖霊と教会との関連、さらにパウロ書簡ではC聖霊とクリスチャンの品格との関連が深く取り扱われています。

祈りと宣教はキリスト教会の本質に係わる課題であり、救いを受けキリストに似た品性へと変えられてゆくプロセスはクリスチャンの本質に係わる課題です。いずれにしろ聖霊のお働きを抜きにしては神のみこころにかなった「教会」も「クリスチャン」も存在することはできません。今朝は@とAを学びましょう。

2 朝の9時の祈り

ではペンテコステの日の朝、どのようにして聖霊が注がれたのでしょうか。120名ほどのイエス様の弟子たちが祈っていた時に、大風のような音がして天から突然聖霊が注がれました。聖霊が注がれることはすでにイエス様が繰り返しお話しされていたお約束でしたから弟子達はこの日を待ち望んでいました。

 「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく  あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4−5)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしに ついてあかしします」(ヨハネ15:26)


この約束を信じて彼らは待ち望み続けその約束を得たのです。すべての神の恵みは人間が勝ち取ってゆくものあるいは奪い取ってゆくものではありません。神の恵みはことごとく与えられるものであり、祈りの中で受け取ってゆくものです。したがって、そこには「祈り」というル−ト、水路が用いられます。待ち望んで祈り求めること、熱心に祈り求めること、心を注いで祈り求めることが恵みの水路となります。

聖霊は神様からの最大の賜物と呼ばれています。弟子達は、「朝9時の祈りの時」に最大の贈り物を受け取りました。この原則はきっと今も通用する原則であると思います。心を注ぎだして祈る「朝9時の祈り」は、あなたにとっても祝福の水路となることでしょう。エルサレム教会は、祈りの中で御霊を受けたのですから、御霊によって祈り続けてゆくことを尊びました。そしてそれはキリスト教会の伝統ともなっています。

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての 聖徒のために忍耐の限りを尽くして祈りなさい」(エペソ6:18)

3 聖霊と宣教

では次に聖霊と宣教の関連を学びましょう。聖霊が注がれた時に教会では何が起きたでしょうか。まず、各自が外国のことばで話しだしました。祭りに参加するために地中海沿岸の諸国から集ったユダヤ人は自分たちの言語でイエス様の弟子達が口々に話し始める光景を見てたいへん驚きました。
「彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではあ りませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでし ょう」(2:7−8)

聖霊は「人間の舌・ことば」を導かれます。ですから学習していない外国のことばを語ることも、人の徳を高めるやさしいことばを語ることも可能となります。異言という特別な賜物としてのことばも存在しますが、私は教会にとって最も価値があることは、「十字架のことば」を語ることであり、キリストの愛のことばを生活を通して語ることだと思っています。
ですから、御霊のことばをすべて異言に限定してしまうのは聖書的ではないと思っています。

ペンテコステの日に、特に弟子達が、外国のことばを口々に語り出したことには大きな意味があります。それは世界中のあらゆる国や民族の言語で「キリストの福音」を語り伝えるためでした。このことは、
キリスト教会がユダヤ民族宗教の枠を越えて世界宗教へと大きく変貌し発展してゆくことのしるしと
もなったのでした。

4 恐れを越えて大胆に福音を語る

ペテロを初め弟子たちはペンテコステの日まで、ユダヤ人側からの密報を恐れ、目立たないように振る舞っていました。ところが、聖霊を注がれたペテロは、立ち上がって大通りへ飛び出し、恐れることなく福音を大胆に語り出しました。
「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」(使徒2:22−23)

ペンテコステの朝、天より注がれた聖霊はペテロの内なる「恐れ」をうち砕きました。聖霊は私たちの内なる岩を砕き、高い壁を崩し、重い錆びた扉を開くことができるのです。福音の敵は私たちの外にではなく、私たちの内にあります。私たちの恐れや不安や恥ずかしさが福音を語る口を閉ざしてしまうのです。
聖霊が注がれるとき、すべてのクリスチャンは「力を受けて」(使徒1:8)キリストの証人となることができるのです。
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」
             (2テモテ1:7)

5 聖霊はみことばを聴く者を悔い改めに導く

聖霊は福音を語る者に対してばかりでなく、聴く者にも力強く働きかけます。ペテロが大胆に福音を語ったとき、人々の中に神への恐れが生じました。罪の自覚が生じました。聖なる不安が生じました。彼らの中に「どうしたらいいのでしょうか」と救いを求める願いが起こされました。そこでペテロは「悔い改めなさい。そうすれば賜物としての聖霊を受けます」と彼らを悔い改めへと導きました。

人ができることは「反省」に導くことどまりです。けれども御霊は真実な悔い改めへと人々を導きます。なぜなら御霊は「真理の御霊」とも呼ばれ、何が罪であり何が過ちであるかを明らかに浮き立たせることがおできになるからです。
そして御霊のみが真の悔い改めと信仰の告白へと人々を導くことができます。人の考えを変えたり、人に自らの過ちを認めさせる事は並大抵のことではありません。力づくで行えばかならず反発や反動が生じます。しかし聖霊が働くところではどんな人もその心が柔らかく変えられ、真の悔い改めが起きるのです。

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:8)

6 聖霊は信じる者をバプテスマへと導きます

その日、ペテロの説教と招きを受けて3000人もの人々がバプテスマを受けました。聖書は繰り返し「信仰の決心とバプテスマ」を一つに結びつけています。聖霊による宣教の実はまず第1に「悔い改めとバプテスマ」です。

「信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます」(マルコ16:16)

バプテスマは信仰告白のしるしとして基本的に水の中にからだを沈めることを意味しますが、霊的には、キリストの中に沈められること、そしてキリストのからだである教会の中に沈められることを意味します。 バプテスマは2000年の伝統を持つキリスト教会の重要な儀式(礼典)ですが、儀式以上の深い意味を持っています。パウロはロマ書にてバプテスマとキリストの十字架の死とを結びつけてこのように解説しています。

「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ロマ6:3−4)

バプテスマを受け全身を水に沈める行為は「キリストと共に古き人に葬られ、キリストと共に新しい人によみがえらされる」ことを意味します。この世に属する者ではなく、「キリストの体である教会」に属する者とされることを意味します。水に沈められることは、キリストと教会に沈められ、結びあわされ、ひとつにされることを現します。聖霊による特別な「結び」の御わざといえます。この結びは固く、罪もこの結び目をほどくことができません。

神の恵みの手によって、聖霊は信じる者をこのようにキリストに漬けてくださるのです。このようにバプテスマを受けキリストに結びあわされたクリスチャンはキリストの体と呼ばれる「ひとつの共同体」を形成し、信仰、祈り、奉仕、品性のすべてにおいてキリストに似るように日々成長してゆきます。ペンテコステの日にバプテスマを受けた3000人もの新しいクリスチャンは御霊に導かれて一致を保ち、エルサレム教会の基盤を固く据えたのでした。
このことは来週、詳しくお伝えしたいと思います。


神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。