5月の説教 5月24日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「信じようとしなかった熱心な祈り手たち」

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」
(使徒12:5)

私たちは日曜日の礼拝毎に昨年末から、祈りについて様々な角度から学び続けてきました。神様が祈りを聞いてくださることを十分に理解したうえで、熱心に祈りながら、祈ったことが実際に成就するとは思いもよらなかったというエルサレム教会で起きたエピソ−ドが聖書に記録されています。

1 教会の祈り

ペテロがヘロデ王の手によって逮捕され投獄された時、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けた」(5)とあります。ヨハネの母マリヤの家に大ぜいの人が集まって、熱心に祈りました。エルサレム教会は、中心的人物であったヤコブが逮捕され処刑されるという大きな悲劇を経験しました。さらにペテロまで逮捕され、殺されてしまえば教会は壊滅的な痛手をこうむることになります。ですから、「ペテロをお守り下さい、助け出してください、教会をお守り下さい」という真剣な祈りが朝に夕に熱心に教会でささげられたと思われます。

教会は「祈りの家」としての本質をもっています。危機的な状況の中で教会はいつでも心を一つにして祈りあうことを大切にしてきました。その祈りによって教会は幾多の試練を乗り越えてきました。その忍耐の背景には、共に一つとなって祈る者たちの祈りを、イエス様は聞いてくださると信じていたからでした。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19−20)

祈りの教会と呼ばれる多くの教会に共通していることは、祈りの意識が日頃から培われ、同時に祈りのネットワ−クが築かれている点です。どの教会でも、諸事情で礼拝や集会に出席できない仲間がいることはやむをえないことですが、緊急の祈りの支援を必要とする時には、一人も漏れることがないように、祈りの課題が知らされ、共に祈る場へと招かれたり、個人的な祈りの機会が推奨されることです。配慮がなく祈りの輪からこぼれ落ちてしまうメンバ−がいるとすれば、それは悲しいことであり、祈りの家にふさわしいありかたではないといえます。教会は祈りの家です。その原点に常に立ち返りましょう。

「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(5)

2 祈り手の不信仰

神様は教会の願いを聞き入れ、ペテロを奇跡的に牢獄から脱出させてくださいました。ペテロはまっさきに、マルコの母マリアの家に集っている仲間を訪ね、神様の奇跡的な救出の恵みを報告しようとしました。ところが一生懸命祈っていた弟子たちと仲間は、女中のロダが「皆さんの祈りに神様は応えてくださいました。今、ペテロさんが門の扉の前に来て戸をたたいておられます。あれはまちがいなくペテロさんの声です!」と報告しても誰も信じようとしませんでした。「あなたは気がおかしいのか」とか「もし声を聞いたというなら、それはペテロの天使に違いない」と勝手なことを並べたてて信じようとしませんでした。おそらく「なにを寝言をいってるのか。ペテロは今頃、牢獄の中にいるに違いない」「ペテロも今頃牢獄で熱心に祈っているはずだ」と思いこんでいたかもしれません。ところが実際は、ペテロは御使いに起こされるまで熟睡していましたから、やはり勝手な思いこみであったわけです。教会は「一生懸命、ペテロのために祈っているのでじゃまをしないでほしい」とばかりに祈りに熱中しながら、喜びの知らせを告げるロダのことばを信じようともせず相手にもしませんでした。

ヘロデ王の牢獄の扉は次々と開いて脱出できたのに、祈りの家の扉はなかなか開かなかったのです。肝心のペテロは長い間、祈りの家の外に立たされたままでした。これが不信仰の実態です。祈っていながら信じていない。祈っていながら確信していないのです。

「預言者的過去」という特別な時制を以前、学びました。みこころにかなって祈ることがらは必ず実現する、いな、「実現した」と信じて疑わず祈り続けることが求められています。「祈ったことはすでにかなえられた」と信じる預言者的過去に基づいた祈りにしっかりと基礎づけられたいものです。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(1ヨハネ5:14−15)

でも、どうしてこんなことが起きてしまうのでしょう。考えられることは、かつて教会で熱心に祈ったにもかかわらずヤコブが殺害されてしまったという前例があるからです。今回のペテロのための祈り会と同様、かつてヤコブのためにも徹夜で祈りが捧げられたにちがいありません。しかしヤコブは処刑されてしまい、彼らの祈りは空しくついえてしましました。祈りがこたえられなかったという過去のできごとがその後に大きな影響を与えてしまい、信じて祈るという祈りに「落とし穴」を作ってしまっていたのです。

過去のできごとに引きづられてしまうことは私たちの弱さといえます。私たちは「過去と現在と未来」という3つの時間の中に生きていますが、過去と現在に強くしばられやすいのが人間の性質です。その中で信仰は「信仰と希望と愛」に生きる世界であり、過去に支配されず、現状に拘泥されず、未来をめざして自由なこころをもって歩むことが最大の特徴になっているといえます。「信じるならば神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)といわれたイエス様のことばを信じて歩みましょう。

結局、教会の中で「ロダ」という女性一人だけが「信じて祈っていた」のです。過去や現在に捕らわれてしまいやすい弱さを持つ者が集まる教会であっても、一人の者が「疑わずに祈る信仰」を持つことによって、その教会全体が失敗から救われるのです。疑わずに信じて祈るクリスチャンの存在はどんなに尊いことでしょうか。その一人の祈り手の祈りによって教会は変わることができるのです。

3 祈りに応えられる神様

さて、神様は脱出不可能と言われた牢獄からペテロを救出されました。ユダヤ人のご機嫌をとろうとしたヘロデ大王は過ぎ越しの祭りが終わったら即座にペテロを処刑しようと考えていました。そのための大事な囚人ですからことのほか厳重な警戒を命じました。2本の鎖でつないだうえ、昼夜4人づつ4交代で番兵が両脇を固め、牢の入り口にも番兵が立って警護にあたりました。ところが深夜、御使いが現れ、ペテロを起こしました。起きあがると手から鎖は抜け落ち、「ついてきなさい」との御使いの指示通りに行動すると、2つの警護室の前を何ごともなくすり抜けることができました。一人の人間の力では開けることができない重い鉄の門も自動的に開き、ペテロは牢獄から無事に脱出できました。なにがおきたのか、どうして脱出ができたのかペテロにもわかりませんでした。ヤコブには起こされなかった奇跡を神様はペテロには成就されました。どうしてなのか誰にもわかりません。それは神様の深い御摂理によることでした。

しかし、この出来事を通して私たちはこのことを知ることができます。祈りがそこにあるならば、手足の自由を奪う鎖もほどけます。重い鉄の扉も開かれます。道なき道も備えられます。試練の中にのがれの道を神様は祈りに応えて用意してくださるということです。
全能の神様におできにならないことはありません。これが、私たちが信じる神様です。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(1コリ10:13)

ある時、イエス様のもとに、病気の発作で苦しむ息子を救って欲しいと父親が現れました。彼はイエス様に懇願し「もし、おできになるのでしたら私たちを哀れんでお助けください」と祈りました。この祈りは一見、謙虚な祈りに思えるかもしれません。しかし、イエス様は即座に訂正を迫りました。「できるものならというのか。信じる者にはどんなことでも出来るのです」(マルコ9:14−29)と。

父親は自分の不信仰に気づきすぐに「信じます。不信仰な私をお助けください」(9:24)と悔い改めました。彼は、疑わないで信じて祈ることを、イエス様からこの出来事を通して学ぶことができました。

私たちも教会で祈るときも個人で密室で祈るときも、イエス様に祈り求める時はいつでも、「疑いをはさまないで祈る」「信じて祈る信仰」に立つことを学ばせていただきましょう。信じない者にならないで、信じる者とされましょう。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)

   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。