5月の説教 5月17日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「聞かれない祈りにも意味がある」

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(2コリント12:7−8)

「どんな祈りも神は聞いてくださる」と先週、お話ししました。今週は、矛盾するように聞こえるかもしれませんが、「聞かれない祈りもある」ことを聖書から学びたいと思います。聞かれない祈りもあることをよく理解することは私たちの祈りの質を高めるからです。まず、整理をすれば、聖書には大きく「4種類の祈り」が記されていることを理解しましょう。

T 4種類の祈り

1 神様がすぐに聞かれる祈り       

イエス様の奇跡の多くはこのタイプでした。不思議なことに、相手が信仰を持っていなくても即座の奇跡が行われた出来事も記されています。即座の奇跡的な介入は神様の一方的なご自愛に根ざしています。私たちの実際生活の中ではおそらく即座に祈りが答えられたという割合は2%ぐらいではないでしょうか。

2 神様が聞かれるまでに時間を要する祈り   

10人のハンセン氏病患者はイエス様に命じられて命がけで祭司のもとへ出かけました。その途中で彼らは癒されました。イエス様から目にどろを塗られ、「シロアムの池まで行って洗え」と命じられた盲人がその通りに行ったところやはりその途上で癒されました。カナの村の結婚式でイエス様の母マリアは「葡萄酒」がなくなったことをイエス様に訴えましたが、イエス様は「わたしの時はまだきていない」と拒まれました。しかし、僕たちに水を汲みに行かせ大きな6つの水瓶の口一杯まで水をくみ終わったその時に、ただの水が最高の葡萄酒に変えられ祝いの席をにぎわしたという奇跡が起こされました。これらの出来事には時間的なズレ(タイムラグ)があります。イエス様の側でご準備をされたり、最善のタイミングを図られたりする大切な時間であり、祈る者の側にとっては神様を信頼して待ち望み祈り続けるという信仰の成長を必要とする大切な期間であったと考えられます。

私の経験では約48%近くがこのタイプの祈りではないかと思います。私は10年たって思いもかけず、急に扉が開かれ、しかもすべてが整えられ東京の神学校に入学できたうえ、さらに1年半で正規に卒業できたという奇跡的な経験をさせていただきました。神様には「無意味な時間はない」と深く感謝しました。

3 神様が聞かれない祈り 

さて、上記の2つとは異なり、結果として祈りが「かなえらえなかった」という場合があります。代表例として今日の礼拝箇所でもあるパウロの祈りやゲッセマネの園でのイエス様の祈りをあげることができます。パウロは神様に「肉体のとげ」が取り除かれるように3度も祈りました。イエス様は十字架の死を前にゲッセマネの園で「父よ、この杯を去らせてください」(マタイ26:39)と、3度も祈られましたが、結果的にその祈りはかないませんでした。しかし、父なる神様の御心を知ったパウロもイエス様もその後、父の御心のただ中を歩まれました。かなえられなかった願い以上の深い神の御心を知らされたからでした。私は祈りの中のおよそ40%近くがこのタイプの祈りではないかと思います。かなえられなかったことは当時はつらい敬虔ですが、後には神のみこころの深さに圧倒される意味深い祈りといえます。

4 動機が間違っているから神様が内容を拒否される祈り

ヤコブとヨハネの母は息子たちを「左大臣・右大臣に就かせてくれ」とイエス様に懇願しましたがイエス様はこの申し出を受け付けませんでした。身勝手な動機による祈りに神様はこたえることができないからです。神様は祈りの内容とその動機もおはかりになります。           

さて、聖書は初めから聞かれない祈りがあることを教えています。以下のみことばは祈りがこたえられない時に見られる「4つの障害」を指しています。

@偶像

「もしも私の心にいだく不義があるなら主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)

不義と訳されたことばは「罪を見ているならば」という意味で「偶像礼拝」をさすことばです。偶像礼拝をひそかにおこなう者の祈りを神様はお聞きにはなりません。

A罪

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:1−2)

罪は神様の恵みを堰とめてしまいます。神様との間に大きな壁を作ってしまいます。堰を取り除き壁を壊さなければなりません。罪のない完全な人間になろうと志すのではなく、キリストの十字架を仰ぎ、赦しを信じ、罪を告白して悔い改めることを神様は願っておられます。堰が除かれ壁が崩されれば再び神の恵みは豊かに流れ出るようになります。

B間違った動機

「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:2−3)

悪い動機とは、「自分の快楽のため」とあるように身勝手な祈りのことです。祈りのゴ−ルはいつも「神様の栄光となること」にあります。たとえば若い人たちが結婚に関して祈るときに、一般的に「自分が幸福になる」ために「三高(背が高い 高学歴 高収入」を願い求めるのではないでしょうか。クリスチャンの場合は、パ−トナ−とクリスチャンホ−ムを築いて神様により良くお仕えできるためにという願いをもって結婚の導きを祈ります。私たちの願いは何をするにしても神様の栄光を豊かに現すためであり、そこに喜びを見いだすからです。

Cゆるさない心

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」(マルコ11:25)

赦しを願い求める祈りは非常に新約聖書的な祈りと言えます。イエス様は「人を恨んだり、憎んだり、怒ったまま」で祈る前に、まず相手と和解できるように赦しを祈りなさいと弟子達を導きました。悪意と怒りや恨みで曇った心で、純粋な祈りをささげることはできないからです。赦せない氷のような心であってもイエス様の十字架の前に進み出る時、イエスキリストの愛であなたが変えられます。

もしあなたが「赦さなければならない」と苦しんでいるならば、「赦したい」へと自然に変えられることでしょう。ただ、十字架の座に進み出ましょう。それだけでいいのです。和解の霊がしずかにきっとあなたをつつむことでしょう。

D抽象的な祈り

何を祈っているのか漠然とした祈りも神様が聴かれない祈りに挙げることができるかなと思います。

韓国で40万人の信徒を有するチョ−・ヨンギ牧師は祈りの人であり、祈りを通して多くの神のみわざを経験してこられました。貧しい中で開拓伝道を始めた当初、伝道のために「自転車と机と椅子を与えてください」と6ヶ月間祈り求めましたが、何の応答もなかったそうです。ところが、ある時、神様が「あなたの祈りは6ヶ月前からすでに聞いているが、一体どんな自転車が欲しいのか私にはわからない。具体的に話してみなさい」と語りかけてくださったそうです。そこで先生は、はっとしました。神様は漠然とした祈りや願いではなく具体的で明瞭な祈りを喜ばれると知ったのです。そこで先生は、自転車はしっかりしていて壊れないアメリカ製、机の材質はフィリピンのマホガニ、さらに移動しやすいキャスタ−付の革張りのイスと具体的に祈ったそうです。すると、2週間もしないうちにその全てが与えられたそうです。具体的に目標を定めて祈ることはとても大事です。あいまいなままのあいまいな祈りを重ねていてもあいまいな答えしかつかめません。霧の中を泳いでいるような祈りには力が伴いません。

私たちが何を求め、何を願い、どうしたいのか、父なる神様は強い関心をもって私たちの祈りに耳を傾けておられるのではないでしょうか。

「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」(マタイ15:28)

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1:6−7)

4 たとえ祈りがこたえられなくても

さて、ここで、「パウロの祈り」にもどりましょう。

パウロを悩まし苦しめた「肉体のとげ」(2コリント12:7)が何を意味しているのか詳しくわかりませんが、病気か身体的ハンディキャップと考えられています。この病はパウロの伝道にも少なからず影響を与えてしまっていました。ですからパウロは3度もイエス様に祈ったのですが、ついにかなえられませんでした。3回という表現は、「回数」を問題にしているのではなく、3や7は完全数ですから「繰り返し、繰り返し祈り抜いた」ことを意味している文学的表現です。結論から言えば、パウロの祈りは聞かれませんでした。ところが、パウロは失望したかというと、そうではありません。むしろパウロは恵みに満ちた「父のみこころ」を学んだといいます。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」
(2コリント12:9−10)

二つのことをパウロは学びました。

このとげは、「私が高ぶることがないようにとの神様からのメッセ−ジ」であるとパウロは理解しました。そこには逆説的な考えがみられます。マイナスの評価しかできなかった事柄の中に、大きなプラス面を見いだし、無価値無益と思っていた事柄の中に価値と宝を見いだすことができたのですから。有名なある医者が「目の前の患者さんが私のかわりに病気になってくれている」と思うようにしていると語っていました。そうすると感謝の心と共に、ベストを尽くして治療に当たろうとの意欲がわいてくるそうです。このお医者さんの目には、「患者さんはみんな私がかかっていてもよい病を身代わりに背負ってくれている尊い存在」として映っているのです。

病気も障害も試練も困難も、そこにどのような意味を付与するかでその後の歩みに大きな変化が生じます。人を否定的にする価値づけもあれば人を肯定的にする価値づけもあります。人は「価値づけ」で生きているのです。自分がどのように価値づけるか、わかりやすく言えばどのように受けとめるかによって肯定的にも否定的にも、そして不自由にも自由にもなれるのです。人間というのはなんと不思議な存在でしょうか。

さらにパウロが受けた最大のメッセ−ジは「私の恵みはあなたに対して十分である」との神様からのメッセ−ジでした。病気や障害によって神様の恵みは減少するどころか、十分過ぎることをパウロは経験しました。病気や障害は神様の恵みの妨げになることはないのです。

神の恵みを知ったパウロは、自分の弱さを嘆くのではなくむしろ喜び誇ろうとしています。パウロは病気を受け入れ、共存共生の道へ、自分との和解の道へと進み出しました。 

そして、最後にパウロは真の強さを発見しました。「私が弱いときこそ私は強い」という逆説的な真の自己発見です。外側の強さではなくキリストの力に覆われた内的な強さ、霊の強さにパウロは立つことが出来ました。 

人を生かすことができる真の力はどこからくるのでしょう。権力や金力でしょうか。軍事力や政治力でしょうか。体力や筋力、知能や能力あるいは健康力でしょうか。「十分に注がれるキリストの恵み」という霊的な力が隠されているのです。

私の父は定年直後に脳梗塞で倒れ、左半身が動かなくなりました。懸命なリハビリによって徐々に回復しましたが左手の機能を失いました。大好きだった釣りをすることも車を運転することも出来なくなりました。不満や欲求がたまっており、障害を受け入れることが困難だったようです。ある時、私たちの教会が田原米子さんを迎え講演会を開きました。田原さんは若い日に鉄道自殺を図り、両足と左足を失い右手も指が3本だけしか残らなかった重度の身体障害者です。彼女は苦悩の中でキリストの愛に触れ新しく人生の再出発をされました。指3本で料理も掃除も洗濯もちゃんと済ませ、牧師と結婚し、2児の母として娘さんを育てあげました。田原さんが私の父のためにと3本の指だけで「折り鶴」を作ってくれました。田原さんの本と講演テ−プとその折り鶴を父のもとに送ると、父から「目が覚めた。私は失ったものしか数えていなかった。残っているものを数えて感謝することを忘れていた。ありがとう。」との趣旨の返事が届き、友人知人全員にすぐに「全快祝い」のはがきを書き送ったと記されていました。

父はその後、不自由な体ながら自転車も器用に乗りこなし、右手1本だけでワ−プロからパソコンまでマスタ−し、いつしか三重県の視覚障害者のボランティアグル−プの会長まで務めて奉仕に励むようになりました。健康で元気だった時には出会うことができなかった新しい人々との出会いを喜び、自分を生かして楽しく生きています。

「失ったものを数え続けるのではなく、残されているものを数え、感謝していきてゆく」新しい世界の中を父は歩み出したのでした。

聞かれない祈りがこの世界には確かにあります。しかし、聞かれない祈りは神様の存在を否定するものではありません。聞かれない祈りはあなたの存在が神様から忘れられたことを意味しているのではありません。神様からあなた自身が拒否されたわけでもありません。

あなたが祈った内容は文字通りには適わなかったけれども、神様は祈り求めたあなたの存在をしっかりと受けとめてくださっています。そしてその試練と苦難を通して、真の強さをあなたの人生にもたらそうとしてくださっているのです。それは誰もが通る道ではないかも知れません。少数の選ばれた者だけが通る「スペシャル」な道かもしれません。あなただから、きっとできると信頼して、神様はその道へ招かれたのです。聞かれなかった祈りの先にも、思いもかけない大きな喜びが待っているのです。天の父なる神様がどうしてあなたの祈りを無視されることがありえるでしょう。

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」
(詩篇119:71)


   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。