5月の説教 5月10日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「神はかならず祈りを聞いてくださる」

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5:13−14


1 母の祈り

今日は母の日です。インタ−ネットで次のような祈りを見つけましたので紹介します。

「神様、私をよりよい親にしてください。 私の見果てぬ夢を子どもに負わせることなく、子ども自身が人生を選ぶことを助けるものにしてください。 道草や回り道にもいらいらせず、 子どもの長い人生からこれを見守る賢さをお与え下さい。
のろさやぐずさに八つ当たりして、 子どものやる気をそぐことがありませんように。 誰にでもある失敗にほほえむ余裕を、 否には否をもって当たり得る者としてください。
叱る時には、優しい声と温かい心をお授け下さい。 そうすればきっと、叱られた訳に聞き入り、 人生の秩序と決まりを生涯の友とするでしょう。
くどくしつこい言葉や黙って無視することから 私をお助け下さい。 そして、まっすぐに頼ってくるまなざしを 理解と和らぎにおいて受け止めることが出来ますように。
どうか、私の声と怒りを静めてください。 そうすれば生きる喜びまで曇らすような 親子喧嘩はなくなるでしょう。
私の子どもが私を見て、大人になることをためらうことの ないように私に内なる輝きをお備え下さい。 あるがままの彼らを受け入れ、 そのままで喜ぶものにしてください。
そうすれば、きっと安心して生きていい事を知るからです。 どうか、確かさと優しさにおいて、子ども達を育ませてください。 いつの日か、彼らもまた、そのように隣人を 受け入れることを得るからです。
そして神様、その時がきたら、彼らが望んだ人生を 行かせる勇気をわたしにお与え下さい。
その日には、育んできた者達が、胸をはって自らの信じる道を 確かな足どりで巣立っていくのをみることができるでしょう。 自信と優しさと、そして良心を心の友としながら。
                 『マリオン・B・ダーフィーの祈りから』

たいへん心に響く「母の祈り」だと思います。あるお母さんはこの詩を携帯電話に打ち込んでいつでも見ては思い起こし、心をしずめるようにしていますとのことでした。

この世にパ−フェクトな母親などは存在しません。児童虐待の過ちを犯す母親もいますが不完全であってもほとんどの母親はマリオンさんと同じような気持ちを心に抱いて子供を精一杯育てているのではないでしょうか。そして、私たちは人生で最初の大切なレッスンである愛される喜び、受けいれられる喜びを、一言で言えば「愛」を母親から豊かに学んできたのではないでしょうか。
聖書は「愛は・・すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
(1コリ13:6)と、愛の本質を教えています。

さて、母の日の愛のお話しから今朝は祈りのお話しへと移りたいと思います。さきほどの有名な「愛の教え」はそのまま「祈り」に置き換えることもできると思います。「祈りはすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」と置き換えても違和感がありません。祈りもまた愛と根っこをおなじにしているのだなと感じさせられます。


2 祈りに応えてくださる神様

さて、クリスチャにとって祈りは「生きた神様との会話」であり、父なる神様が祈りに応えてくださるという喜びがそこには伴います。もちろん、祈りが聞かれないときや祈りが聞かれるまでに時間を必要とする場合もありますが、基本的には私たちが捧げる祈りに父なる神様はかならず答えてくださいます。というのは、イエス様は父なる神様が、祈りにこたえてくださるお方であることを繰り返し約束してくださっているからです。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19−20)

父なる神様が祈りに応えてくださるのは、私たちの必要を熟知しておられるからです。

「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:8)

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:31−32)

私たちの必要を知っておられる方に祈るのですから、知らない人に向かってなんとかわかってもらおうと熱心に祈る態度とはおのずと異なってきます。もし、相手がわかっていなければ詳しく説明する必要があり、わかってもらえるまで執拗に繰り返し繰り返し「陳情」しなければなりません。でもわかっておられる相手に対してくどくど繰り返す必要はありません。むしろ「かならずそうなる」と信じて待つことが求められます。疑わないで信じてその時を待つ態度こそが、「熟知しておられる」父なる神様に対するふさわしい態度といえます。

「イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(マタイ21:21−22)


3 信じて祈る

イエス様は、弟子たちに向かってあなたがたが「信じて祈るならば」と強調されました。祈りは答えられると「疑わず」に「信じて」祈ることが求められています。

結構、私たちは「信じないで」
祈っていることが多くあります。こんな有名なお話しがあります。日照りで雨が降らず困っていた農民が村の教会に集まって、雨が降るように神様に助けを求めて祈ることになりました。当日の夜、教会に人々が集まってきました。一人の少女が長靴に傘をもってやってきました。すると隣に座っていた大人が聞きました。「こんなにいい天気なのにどうして傘をもってきたの」と。少女はきょとんとして「だって神様が祈りに応えてくださって雨がふるんでしょ。」と答えたそうです。

祈りについてヨハネは、

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」(1ヨハネ5:14−15)と、教えています。
ここでは、「信じる」という言葉が「確信する」ということばと同義に扱われています。しかも、祈ったことはすでにかなえられたと知るのですと、「未来の先取り」的態度を教えています。ヨハネの教えを理解するためには、「預言者的過去表現」という旧約聖書の特別な用法を理解しなければなりません。

預言者イザヤは「暗闇の中を歩んでいた民は、大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光りが照った」(イザヤ9:1)とメシア誕生の預言をしていますが、動詞がすべて過去形・完了形で表現されています。真の預言は確実に成就しますから未来形ではなく「もうすでにその通りになった、成就した」という確信に立って「過去形あるいは完了形」で表現されます。「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」というヨハネの表現は預言者的過去の用法に基づいています。クリスチャンの祈りの最大の特徴といってもいいかもしれません。ときに求められる態度です。では、すでにかなえられたと疑わず信じたならば、次にどんな対応が必要でしょうか。

4 考えと態度を切り替えましょう。

「そうなった時にどうするか」「そうなったらあなたは何をしているか」と未来に自分を置いて各自が考えるのです。「そうなるためにはどうするのか」と現実から出発をする発想ではなく、「そのように実現したときには何が今とはちがうのだろうか」「今と違って何をしているだろうか」と考えてみましょう。

私たちは今、新しい会堂を神様に捧げたいと願っています。そこで、「会堂が広くなったらあなたはそこで何をしていますか。今の2倍の広さになったとしたらあなたはなにをどうしていますか。今とどこがどうちがいますか。バリアフリ−が実現しているならあなたはそのことをどのように生かしていますか。ピアノがおける会堂になっています。あなたはどうしていますか。今と違うあなたが見えますか。あなたの奉仕に変化がみられますか。」そのように問いかけ、そのように今から先取りして生きるのです。

5 現実への揺れ戻しという葛藤

「すでにかなえられた」と信じる祈りは、未だ何も変わっていないという現実に直面させられます。葛藤が強まりあきらめが漂い始めます。失望して、あきらめが先だってしまうようなときこそ、信仰に立つときです。イエス様はあきらめないで祈り続けることを弟子たちに教えてくださいました。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らに
            たとえを話された。」(ルカ18:1)

「あきらめないで祈り続ける」ことと「くどくどと祈る」こととは全く異なります。あきらめないで祈り続けることは、祈りの苦闘を意味します。戦う真の相手は相手は自分の中の疑いや不信仰という名の目に見えない巨大な壁との戦いなのです。

イエス様は亡くなった弟ラザロの蘇りを信じられないマルタに向かって、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)と励ましました。マルタばかりではありません。全ての弟子たちに対してイエス様はこのように諭しました。現実の壁の前で失望してはならない、心の戦いから目を背けてはならない。真の敵は自分の心の中の「未だ実現していない」という名の現実の壁です。信仰だけが、神のお約束を信じる信仰だけが、必ず実現すると疑わずに信じる信仰だけが、この壁を崩すことができ、神の栄光を仰ぐことができるのです。

最後にもう一度、イエス様の約束のことばをききましょう。

「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」
(ヨハネ14:14)


   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。