5月の説教 5月3日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「破れ口に立って祈る者はだれか」

ハムの地では奇しいわざを、葦の海のほとりでは恐ろしいわざを、行なわれた方を。
それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、
滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、
どうなっていたことか。
」(詩篇106:22−23)

今朝の礼拝では李さんが証しをしてくださいました。中学時代に初めて教会に通って救いを受けました。今日までいじめや多くの試練を経験し、罪を犯し、多くの涙を流しましたが、どんな生活の中にあっても、変わらぬ愛をもって父なる神様は今日まで導き続けてくださったことを感謝したく思います。

1 破れ口に立つ者

詩篇106にはイスラエルの民の不信仰の歴史が記録されています。イスラエルの民はモ−セによってエジプトの奴隷生活から解放され、行く手を塞ぐ紅海でさえ神の大能の力により二つに分けられ海底に備えられた道を渡るという大いなる奇跡を見ました。しかしながら、直後の荒野の生活ではもうさっそく「水がない」「パンがない」とつぶやき、こんなひどい目にあうぐらいならエジプトの奴隷生活のほうがまだましだったと文句をいいはじめました。神の友とさえ呼ばれたモーセの指導を拒み、不信仰の限りを尽くし自分勝手に歩もうとしました。それどころか、ついに金の子牛像を刻み、偶像を拝み出す始末でした。

イスラエルの民の不信仰の特徴は、「恩恵の忘却」にありました。

「私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行なった。私たちの先祖はエジプトにおいて、あなたの奇しいわざを悟らず、あなたの豊かな恵みを思い出さず、かえって、海のほとり、葦の海で、逆らった。」(106:6−7)

さらに彼らの神様への賛美も感謝も一時的なものにすぎませんでした。

「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。しかし、彼らはすぐに、みわざを忘れ、
 そのさとしを待ち望まなかった。」(12−13)

喉もとすぎれば熱さも忘れるといいますが、イスラエルは神様の恵みにとどまることを学ぶことができない愚かな民でした。イスラエルは幾度となく不信仰と不従順によって神様を悲しませ、怒らせたことでしょう。

ところがここにモ−セとピネハスのふたりの名前が出てきます。モーセは「御前の破れに立ち」、民の霊性をギリギリのところで支えました。でなければ、民は罪と腐敗ゆえに神の怒りにより滅びていたでしょう。ピネハスも同様に「なかだちの業をした」(30)と記録されています。

「それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」(23)「そのとき、ピネハスが立ち、なかだちのわざをしたので、その神罰はやんだ。このことは、代々永遠に、彼の義と認められた。」(30−31)

「破れ口」とは、聖書特有のことばですが、町を防御する城門や城壁の一部が敵によって突き崩されてしまった箇所をさすことばです。敵はそこから一気に侵入し攻め込んできます。味方は破れ口が拡大しないように兵をつぎ込んでくい止めようとしますから、破れ口での戦いがもっとも激しくなり、勝敗はこの破れ口での攻防にかかっているといっても過言ではありません。このことから聖書では破れ口とは、人間が神様に逆らい神様の戒めを破り、罪を犯すまさにその悲惨な事実を指すたとえとして用いられています。この破れ口に立って神様と人間との間で、罪の赦しを執り成す者の存在が必要とされたのです。モ−セもピネハスもイスラエルの民の破れ口に立って神様に執り成しの祈りという奉仕をささげ「代々永遠に、彼の義と認められた」(31)人物でした。

2 執り成し祈る者の信仰

このように破れ口に立って人間の罪をとりなす者の存在が必要ですが、執り成す者には神様の恵みを信じ抜く信仰がなくてはなりません。

詩篇106編はイスラエルの罪が記録されていますが、前半(1−5)と後半(44−48)では神様のいつくしみと愛が高らかに賛美されています。前半は神への賛美への招きで始まり、「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1)、後半は神への感謝と賛美で結ばれています。「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。すべての民が、「アーメン。」と言え。ハレルヤ。」(48)

詩篇106に見られる「賛美−罪−感謝」という構成は、人間の歴史は確かに人間の罪の歴史ですが、どうじに神様の忍耐、赦し、愛、慈しみの歴史でもあることを伝えています。

旧約聖書学者の関根正雄師の「どんなに人間の歴史が深く人の側の背きと罪で汚されていてもこれをやはり賛美の枠の中に置いたのある。それは人の罪にかかわらず神の歴史であり、神の歴史はいかなる場合にも賛美されるべきだからである。」(詩篇講解)ということばは本質をみごとに言い表していると思います。

人間の悲惨な罪の歴史が、神の慈しみの歴史にくくられており、人間の罪が「神のとこしえまでの恵み」(1)を浮き彫りにしているのです。

破れ口に立つ執り成し手は、この神の慈しみへの信頼者でなければなりません。そうでなければ人間が繰り返す罪のゆえに、執り成し手自らが挫折し失望し無力感に捕らわれてしまうからです。

パウロも執り成し手の一人でしたが神の恵みをしっかり仰ぎ見ています。

「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、
  恵みも満ちあふれました」(ロ−マ5:20)

このように私はイメ−ジしています。人間の罪が描かれた醜いばかりのおぞましい1枚の絵が描かれています。そこには目をそむけたくなるばかりの光景が描かれています。しかし、その罪の絵そのものはとこしえにかわらない神様の恵みという美しい額縁に収められ飾られているのです。反対に人間の善行を賛美するような幸福そうに見えるきれいごとが描かれた一枚の絵が描かれていたとしても人間の罪と死を表す黒い額縁の中に収められていたらどうでしょうか。あなたはどちらの額縁つきの絵を得たいと思われます
か。

イエスキリストはイスラエルにとっても異邦人にとっても唯一の救い主です。もし父なる神様が、第二のモーセであるイエス・キリストを遣わしてくださらなかったら一体、世界はどうなったことでしょう。もしキリストが十字架の上で執り成しの祈りをしてくださらなかったらどうなっていたことでしょう。私たちは神様を知ることも罪の赦しを信じることもできぬまま、悔い改める機会さえ得ぬまま、永遠の滅びに突き落とされていたことでしょう。

「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(ルカ23:34)

「父よ、かれらを赦してください」とのイエス様の十字架の執り成しの祈りのゆえに、私たちは罪の赦しを受け、父なる神様との和解に導かれたのです。

不信仰なイスラエルのために「やぶれ口」でモ−セは祈りました。不信仰な全人類のためにイエスキリストはカルバリの丘の十字架にかかり、十字架という名の破れ口でいのちを捨ててまで祈ってくださいました。

あなたの周囲の人々の「破れ口」に立って執り成しの祈りをささげる者はだれでしょう。あなたしかいません。すべての聖徒のために「祈れ」とパウロはいいました。

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)

破れ口に立って「執り成し祈る」者の一人でありたいと願います。

そして、執り成し祈る者は、神の恵みを決して見失うことなく、否、積極的に信仰をもって語る者でもなければなりません。どんなに悲惨な現実がそこにおきていても決して失望することなく、ものごとを神の恵みの枠のなかで見ることができる者でなくてはなりません。神様の恵みを恵みとして最後まで信じる者でなければなりません。最後まで神の恵みを信じる者が神様の栄光を見ることができるのです。

「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)

今日は新しく「伝道パック」を用意しました。このパックの中には教会案内と数種類のトラクトが入っています。あなたの鞄の中に、あるいは玄関口に「伝道パック」を用意しておいて、いつでも機会があれば神様の恵みを伝える者とされましょう。必要な方はお申し出てください。私はこう思います。

破れ口に立って祈る者たちこそが真の意味で、魂の救いを祈る伝道者たちでもあるのだと。


   神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。