3月の説教 3月22日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「悪から救い出してください」

「試みにあわせず悪より救い出したまえ」(マタイ6:13)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、
食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、
この悪魔に立ち向かいなさい。」(1ペテロ5:8−9)

先週、学びましたように試みと訳されたことばには、信仰から私たちを離れさせる「誘惑」という意味と、反対に信仰を育てる「試練」という意味があります。試練ならば安易に避ける道を探し求めるのではなくむしろ忍耐することで信仰が養われてゆくことを待ち望むことが求められます。しかし、誘惑であるならば賢明に避けることの方が無難ですから、ここは「誘惑にあわせないでください」という祈りになります。なぜなら誘惑は私たち人間の心の内側の欲と強く結びついており、私たちは自分の欲をおさめることにたいへん無力だからです。しかも誘惑は破壊的な力を持っているためにしばしば悲惨な結果をもたらします。聖書が警告する通りだと思います。

「欲が熟して罪を生み、罪が熟して死にいたる」(ヤコブ1:15)

では、主の祈りの中の後半部分「悪より救い出してください」という祈りはどのような意味になるでしょうか。ギリシャ語では「悪い者」という意味ですから、悪いことがらや状況から救い出してくださいというよりは、悪魔の力から救いだしてくださいと理解することがふさわしと思われます。つまり「悪魔とその力から救出してください」という謙虚な祈りをさすことになります。

クリスチャンでない人々にとって「悪魔」ということばは違和感を覚えるなじみにくい言葉だと思います。しかし聖書を通して「悪魔」について正しく知ることはキリスト教の信仰を理解する上でも非常に重要です。ですからおとぎ話しの世界や神話の世界の出来事と軽く受け流さないで欲しいと思います。1ペテロ5:9には、悪魔の本質と目的が教えられています。

1 あなたがたの敵

 神は私たちの永遠の味方です。いつも私たちを傍らで守ってくださいます。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ロ−マ8:31)

しかし、サタンは私たちの永遠の敵です。むろん、サタンは神様の永遠の敵と呼ばれるだけの力をもってはいません。サタンはすでに滅びに定められているからです。しかし私たち信仰者にとってサタンは永遠の恐るべき敵といえます。サタンは、元々、ルシファ−という名で、神にもっとも近い存在者であり、たいへん美しい天使であったとされています。しかし自らの力を誇り、神のごとくになろうとしたその高慢さのゆえに手下の天使達と共に天から追放されたと言われています。

「高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(1テモテ3:6)

サタンはそのほかにも「訴える者」(黙12:10)「誘惑者」(1テサ3:5)「空中の権を持つ支配者」(エペソ2:2)などとも呼ばれています。いずれにしろ黒い翼に鋭い爪を持ち、恐ろしい顔と剣のような尾を持ったサタンの姿を想像してはなりません。サタンは最高の美しさと知恵をもった麗しい誘惑者であることを覚え「いつでも目をさまして」(1ペテロ5:8)注意深くあることが求められています。

2 食い尽くすライオンのように信仰を狙っている

サタンは一体何を狙っているのでしょうか。一言でいえば、信仰を食い尽くそうと狙っているのです。皆さん、ライオンが餌を食べる光景を見たことがありますか。ライオンが獲物を頭から丸かじりすることはありません。お腹の肉と内蔵を食べます。そこに血と栄養が集中しているからです。食べ残した残りの部分は他の動物が群がって食べます。サタンは神様からクリスチャンに与えられた「信仰」に狙いを定めて誘惑と攻撃を加えてきます。

このことを理解してください。悪魔は「人を悪人にする」ことを目的にしていません。欲がその人を悪人にしたてあげることですでに十分機能を果たしているからです。悪魔のねらいは別なところにあります。悪魔の狙いは「信仰のない善人」を作ることにあります。良い人だけれど信仰に興味も関心もさらには何の価値も見いださないという人たちを多く作れば、サタンは目的を達成することになります。

というのは、神様ぬきで人生を歩もうとする人は、結局最後は自分の力を頼り、誇りとするしかありませんからどうしても利己主義・自己中心主義にならざるをえなくなります。「宗教の無い教育は知識しか持たぬ悪魔を作り上げる」ということばがあるほどです。

信仰があってもなくても永遠の神様の審判の前に立つ日まで、この世ではそれで十分にやっていけるかもしれません。しかし、やがて来る終わりの日に私たちは「神の審判」の前に立たねばなりません。聖書は審判の絶対性をこのように教えています。

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」
(ヘブル9:27)

その日に問われることは信仰を持っているかいないかです。神様がごらんになるのは良い人であったか、良いことを行ったかではなく、信仰がそこに見られるか否かであると聖書は教えています。

「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)

今週の木曜日から土曜日まで2泊3日で中国の大連に出かけました。海外旅行は9年ぶりとなりました。出国検査がたいへん厳しくなり背広まで脱いで検査を受けなければならないのには驚きました。ご存じの方も多くおられると思いますが、出入国に当たって最も重要な物は「パスポ−ト」です。パスポ−トを所持していなければ、あるいは忘れてしまったらその時点でアウトです。通関では一人一人が呼ばれてパスポ−トをチェックされます。係官が見るのはそのパスポ−トです。その人の職業が何か、お金持ちか否か、学歴があるかないか、良い人か悪い人かは問題ではありません。パスポ−トを所持しているかどうかがすべてとなります。所持していなければ出国も入国もできません。しかも、偽造パスポ−トやコピ−品ではまったく通用しません。更新期限が切れてしまったパスポ−トも役に立ちません。

考えてみると、信仰はパスポ−トとよく似ています。まず、所持しているか否かが問われます。次ぎに更新されているか否かが問われます。10年前までは礼拝にも行っていましたが今はさっぱりご無沙汰です!では通用しません。生きた信仰を持っているか、それが神の国に入れるかどうかを決定するのです。だからこそ、サタンは信仰者から信仰を奪い取ろうと虎視眈々機会をうかがっています。決してサタンのもくろみをあなどってはなりません。

もう一点、心に留めたいことがあります。サタンがなぜ信仰を狙うのでしょうか。それは信仰が神様からの最高の贈り物であることを知っているからではないでしょうか。信仰の価値を最も知っているのはサタンです。あなたが気づいている以上にサタンは信仰の価値を知っています。信仰は神様からの最高の贈り物であり、サタンが失ってしまったものだからです。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブ1:17)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

最も大切な人からの大切な贈り物を決して失ってはなりません。ご婦人達の左手の薬指に結婚指輪が輝いているのがここから見えますが、値段は別にしてもその指輪は大切な人からの最も大切な贈り物として今も指を飾っているのです。

エレミヤスという人物が「愛する天の父よ、ただこのひとつのことだけ、私から離れませんようにお守りください。私があなたを信じられなくならないようお守りください」と祈りました。「私があなたを信じられなくならないようにお守りください」という祈りは、何がこの人生で最も価値あるものであるかを知っている者の祈りだと思います。そして、このエレミアスの祈りは牧師としての私の祈りでもあります。

牧師は、信徒達の人生における成功や祝福を祈ることがその努めのすべてではありません。何よりも大切な祈りは、一人一人の信仰がなくならないように執り成し祈ることにあります。誘惑や試練や困難に直面するなかでどれほど多くのクリスチャンたちが信仰を失い、信仰から離れていったことでしょう。最も大切な贈り物である信仰を失ってゆく姿は、神様の大きな悲しみと痛みだと思います。

私は大学時代にクリスチャンとなりましたがその時、教会学校の教師の奉仕が最初に与えられました。小学校から高校まで熱心に教会に通っていた生徒がいてバプテスマを受けクリスチャンになりました。高校生の時に大学受験という最初の関所を迎えました。良く祈り、良く学び、礼拝にも欠かさず出席しましたが、試験に不合格となってしまいました。彼女が受けたショックはたいへん大きく、「あれほど祈ったのになぜ私が落ちてしまったのだろうか」と、彼女は納得がいかず、苦しみました。高校生ではまだまだ試練を信仰的に受けとめることは難しかったのだと思います。結果的にこのできごとをきっかけに彼女は教会から離れてしまいました。私にとってもつらい出来事でした。

ですから、受験生に対して、私は合格を祈るばかりでなく「たとえ不合格となっても信仰がなくならないように」と心を込めていつも祈っています。人生には良いこともあれば辛いこともあり、思い通りにことが進む場合もあれば、なかなか思い通りにはことが運ばないこともあります。しかし、最善へと導かれる神様への信頼と信仰に立って、主のなされる良きことを待ち望んでほしいと願っています。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ロ−マ8:28)

3 信仰に固く立って

「信仰に固く立って」とペテロは教えています。やはりペテロが最も大事にしているのは信仰です。

神様からの贈り物であり信仰を失わず、むしろ固く立って、サタンの誘惑と攻撃に対処してゆきたいものです。イエス様は3度、サタンの誘惑を「みことばにこう書いてある」と退けました。

「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と
書いてある。」(マタイ4:4)

聖書にこう書いてある! これはイエス様が用いられた原則でした。そしてすべてのクリスチャンが用いることができる普遍的な原則です。

私は「こう思う」ではなく、有名な先生がこう言っているでもなく「聖書にこう書いてある」と、イエス様がみことばに立って対処されたように、私たちも神のことばをしっかりと学び、みことばに立ちながら、支えられましょう。次のような祈りを忘れることなく、主の守りと助けを求めましょう。

「こころみにあわせず悪より救い出してください」(マタイ6:13)



                 神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。