3月の説教 3月15日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「試みにあわせないでください」

「試みにあわせず悪より救い出したまえ」(マタイ6:13)

今日は主の祈りの第5番目の祈りの前半部分、「試みにあわせないでください」から学びます。

皆さんは自分の人生を振り返って、最大の試練といえばどんなことを思い浮かべますか。私は小学校時代の両親の離婚、高校時代の大学入試の失敗、大学時代の飲酒運転・人身事故などを思い浮かべることができます。考えてみると危機的状態が多くあったなと思います。みなさんはいかがでしょう。誰もが平穏の人生を願いますが、やはり試練や困難が人生にはつきものですね。

イエス様は「試みにあわせないでください」と祈りなさいと弟子達に教えました。「試み」と訳されたギリシャ語は、誘惑(共同訳)あるいは試練という意味を持っています。ですから、「誘惑からお守りください」あるいは「試練にあわせないでください」というたいへん素直な祈りとなります。

では、イエス様は、弟子達に「試練のまったくない人生」を与えようと考えておられたのでしょうか。もしそうであるならば、弟子達に「自分の十字架を負って私に従ってきなさい」(マルコ8:34)と命じられたイエス様の教えと矛盾してきます。

結論からいいますと、「試みにあわせないでください」という祈りは、「私たちの信仰を危険にさらす誘惑から守り、私たちの信仰の訓練となる試練は耐えさせてください」と理解することがふさわしいと思います。この祈りを誘惑と試練という2つの側面から理解することが大切かと思います。

1 誘惑からお守り下さい

みなさん、もし泥棒が逮捕されて「なぜ人の物を盗んだのか」と警察官に問われ、「そこに物があったからだ」と開き直ったとしたらどうでしょうか。あるいは「盗まれたくなかったらちゃんと鍵をかけたらいいじゃないか」とお説教を始めたらどうでしょう。「他人のせいにするな、思い違いをしてはいけない。自分の欲から盗みという犯罪を犯したんじゃないか」と、叱られるにちがいありません。聖書は、誘惑はその人の内側にある欲望が招き寄せると教えています。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を
生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14−15)

心の中の欲が現実的な罪を起こさせ、さらには死という人生の滅びをもたらします。欲・罪・死という連鎖を悪の団子三兄弟と言ってもよいかと思います。「誘惑にあわせないでください」という祈りは、自らの欲の思い、肉の思いを御霊によってご支配していただくことを祈り求めることに他ならないのです。

「誘惑」は神様から来るものでは決してありません。それは悪しき者・サタンから来ます。サタンから来るものには必ず究極の目的が存在しています。それは「信仰を失わせる」ことです。信仰をしようとする人には信仰に入らせないように働きかけ、信仰に入った人にはその信仰を捨てさせよう、棄教、背教させようとします。あるいは「骨ぬきにしよう」と働きかけてきます。このように、誘惑は人の欲をかきたたせ、神様との正しい関係を崩し、神様との交わりを失わせ、ついには霊的な死に至らせるのです。

ですからイエス様は「誘惑に陥らないように目をさまして祈りなさい」(マタイ26:41)と弟子達を諭しました。目を覚まして祈りに集中することによって、信仰を抹殺しようとたくらむサタンの目的を見抜いて思慮深く対処することができるからです。

2 試練に耐えさせてください

試練という視点からご一緒に考えてみましょう。世界不況のために自動車産業を中心に収益がおおきく減少し多くの企業が苦しんでいます。松下幸之助が「不況の時の10箇条」を作り、社員教育をしましたが、今、その10箇条が改めて見直されているそうです。幸之助は第1条に「不況またよしと考える」と記し、ピンチをチャンスに変えようと考える思考の転換を強調しました。さらに第4条では「不退転の覚悟で取り組む」と強い心を示しつつ、続く第5条では「一服して待つ」と絶妙のバランス感覚を語っています。焦らず忍耐して待つことの重要さを強調しつつ、腹を据え覚悟を決めて、やり抜くという絶妙なバランスを教えました。さすがに経営の神様と呼ばれるにふさわしい哲学性を覚えます。経営の神様と呼ばれた人物がこのように教えていますが、ではまことの神様は聖書を通してどのように試練の時の対処を私たちに語り、導いてくださっているでしょうか。

第1に、試練は人生と信仰に必要な尊いものとして父なる神様がご用意されました

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」(ヘブル12:6−7)

 父なる神様があなたを愛しておられるがゆえにあなたの信仰の訓練となり、あなたの信仰の益になると判断してその試練を用意されました。アフリカに「晴天ばかりが続くと砂漠になる」ということわざがあるそうです。雨や嵐によって砂漠は潤い、洪水は栄養分をもたらし、結果的に肥沃な豊かな土地を造り出します。晴天続きでは砂漠化がどんどん進行し無毛地帯となってしまいます。父なる神様は時には試練のムチを使われることがありますが、ムチは根元から離れれば離れるほど先端部分が当たったときに大きな痛みと苦痛をもたらします。そのムチは誰が握っておられるかを知って神様に近づけば近づくほど痛みは和らぐのです。

第2に、試練の度合いは神様がコントロ−ルしておられます

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(1コリント10:13)

神様は耐えることができないような試練に会わすことはなさいません。逃れの道を用意されています。この逃れの道を、もし「解決への抜け道」と考えると、試練を少しでも楽に避ける方法を模索することを意味してしまいます。むしろ逃れの道は、「通らなければならないトンネルだが出口が必ずある」というイメ−ジで理解するほうが良いと思います。人生にはどうしても通過しなければならない必要な試練があります。それを避けて通ろうとするならば人間的な成長を期待できなくなります。暗いトンネルに入るのは不安ですが、入り口があれば出口もあると信じることができれば、暗いトンネルのなかでも進み抜けることができます。

だから、安易に救いを求めて、安易な救いを提供する偶像のもとへ走ってはならないとイエス様は戒めています。祈り続けること、待ち望むこと、そして忍耐することが、神様が喜ばれる試練の時の対策だと思います。

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

そのためにはみことばの上にしっかり生活を建てあげてゆくことが求められています。みことばに根ざしていないと試練の時に身を引いてしまう結果になります。

「聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです」(ルカ8:13)

3 無力な自分をお守り下さい

最後に、「試みからお守り下さい」という祈りの根底にあるのは、「罪や誘惑に対して無力な自分自身への告白」です。弱い自分自身への信仰的な自覚といってもいいでしょう。

信仰によってどんな誘惑にもうち勝てる、サタンにさえ勝利できる、試練にも立派に耐え抜くことができるという自分への確かな自信があるクリスチャンがいるならば、彼にとって、この祈りは無用な祈りとなってしまいます。

クリスチャンの中に「体育系」と「文化部系」がいるようです。礼拝が終わるとすぐに帰ってしまう「帰宅部」もいますが・・。体育系は「強くあれ、雄々しくあれ」(ヨシュア1:6)と強く生きることを強調します。しかし、その強さのゆえに、試練に耐えられないような信仰は信仰ではない、誘惑にうち勝てないのは信仰が弱いからであると、弱さの中にある兄弟姉妹を受け入れることができず、裁いたり非難する傾向が生じやすくなる場合がみられます。お互いの弱さへのいたわりや配慮に欠けるならば、その信仰は確かに強いけれど愛がともなっていない信仰といえます。そして愛が伴わない信仰は真の信仰ではないと私は思っています。自分の弱さや無力さを素直に分かち合えることができる交わりは質の高い交わりだと思っています。

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける、受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ5:6)

「誘惑にもろく試練に耐えられない」という自分の無力さや弱さを自覚しているクリスチャンは日々、祈らざるを得ないのです、「試みにあわせず悪より救い出したまえ」と。

この祈りなくしては、誘惑を避け、試練を受けとめることさえできないことを自覚しているからです。

ですから、その祈りには真実さが満ちています。口先の祈りで終わることはありません。真の必要があるから祈り求めます。そしてこの祈りに支えられてながら誘惑を乗り越え、試練に耐えることができる喜びと感謝を経験しています。

「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈る祈りがない生活は、隠れた霊的な高慢さのゆえにサタンの鋭い攻撃に敗れ去ってしまう危険があります。「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈る祈りがないないならば、誘惑にはみずから進んで足を運び、試練をうまく避けて通ろうとするイ−ジ−な信仰が育ってしまう可能性も高くなります。何よりも私たちの弱さの中に豊かに働かれる神様の恵みの大きさを経験できないことは淋しいことではないでしょうか。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(2コリント12:9)

「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と十字架のキリストの前で祈れる幸いに、心から感謝したいと思います。

                 神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。