3月の説教 3月1日 礼拝
「祈りのシリ−ズ」


題「日ごとの糧を与えてください」

「私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい」
(マタイ6:11)

「しかし、あなたがたの天の父はそれがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから
神の国とその義とをまず第1に求めなさい。そうすればそれに加えて、これらのものはすべて与えられ
ます。だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に
十分あります。」(マタイ6:32−34)

今日は、主の祈りの第4番目、「我らの日ごとの糧を今日も与えたまえ」との祈りを学びます。11節からは、私たちの日常生活に必要な3つのことがら、現在の日ごとの糧について、過去の罪の赦しについて、未来の様々な誘惑や試みからの守りについて教えられています。

1 日ごとの糧

日ごとの糧とは、日々、一日一日に必要なパンという意味です。ですから、今日一日を生きてゆく上で必要な食べ物を与えてくださいという祈りになります。飽食の時代に生きている私たちには、ピンとこないかもしれません。私自身も正直なところ、今日食べるものが何もない、冷蔵庫の中も空っぽ、財布の中に一円玉さえない、貯金通帳はとっくに残金0になってしまっているという経験がありません。皆さんはいかがでしょうか。ホ−ムレス伝道を熱心にしている友人の牧師は、彼らに差し入れる一個のおにぎりが彼らの今日一日の食べ物であるという人々に日々接していますから、この祈りの切実さを身をもって知っておられると思います。

かつて、エジプトからモ−セによって脱出したイスラエル民族は砂漠でたちまち食糧問題に直面しました。エジプトでは奴隷の状態であったとしても食事と水は約束されていました。しかし自由の身となったものの砂漠では食物と水を手に入れることは不可能でした。不信仰になって彼らが神様につぶやいたとき、神様はうずらを夕方には空から降らせ、朝には毎日マナと呼ばれた蜂蜜の味がするせんべいのような食物を宿営地の周りに天より与え、さらに必要に応じて荒野に水をわき出させ、40年間彼らを砂漠で養い続けました。マナは1日の必要分しか得ることができないため、毎朝、野に出てマナを集めなければなりませんでした。欲張って2日分ため込んでも腐って虫がわいてしまいました。この貴重な体験を通してイスラエル民族は「神に徹底的に信頼を置くことを学びました」。

パンが欲しければパン屋さんに行くかコンビニに行けば手に入るといった状況ではありません。何もない砂漠では神様に助けを求めるしか手がありません。神様に祈り、信頼するしか今日一日を生きるすべがありませんでした。日毎に神に信頼して一日の糧を得るという彼らの経験は、すべての信仰者の原点ともいえます。神様の恵みの中で満たされた生活を送っている私たちにとっても立ち返るべき原点であり出発点であると思います。

100年に一度と言われる金融経済危機に直面し、正社員といえどもリストラの不安を抱えている厳しい中だからこそ、「日ごとの糧を与えてください」と謙虚に祈ることが今改めて求められていると思います。その祈りの中で「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)と言われた主イエスの言葉を聞きなおし、あらためて信頼を深め、神の平安を得たいと心から願います。

2 必要な糧

さて、日ごとの糧と訳されたことばをある学者は「必要な糧」と訳しています。さらに宗教改革者のルタ−は「糧」という意味を、信仰問答集の中で、食物だけをさすのではなく生きるためのすべてのものを意味すると教えました。

「それは肉体の栄養や生活になくてはならないものです。たとえば食べ物と飲み物、着物と履き物、家と屋敷、畑と家畜、カネと財産、信仰深い伴侶、信仰深い子供、信仰深い使用人、そしてまた信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい天候、平和、健康、教育、名誉、良い友人、信頼できる隣人などです」と教えています。

結構ぜいたくだなと思うほど多くのリストをあげていますが、ルタ−は私たちの人生を満たす、無くてはならぬ良き物はすべて神様から与えられるとの信頼に立っていたと思われます。

さらに、この4番目の祈りから「私たちの」という1人称複数形の表現が強調されてきます。つまり「私たちに必要なものを与えてください」という祈りは、信仰の共同体の祈り、教会の祈り、クリスチャンの交わりの中の祈りとして位置づけられています。個人的な必要を祈るとともに、私たちという共同体として本当に必要なことを共に祈ることが第4番目の祈りの趣旨となります。では、改めて教会とクリスチャンにとって本当に必要な日毎の糧とは何でしょうか。たとえばルタ−はさきほど22の例をあげていますが、イエス様はもっと簡潔に2つのことを教えてくださっていると私は思います。

第1は、神のことばです

イエス様が30日間の断食をして伝道の準備をされた直後に、サタンはイエス様を誘惑しましたが、イエス様は「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つの言葉による」(マタイ4:4)と宣言しました。イエス様は人を生かす必要な糧とは神の言葉であると考えておられました。この世の富や楽しみを中心に生きるのではなく、神のことば・真理のことばを機軸にして人は人生を生きるのだと言われました。この世の富は消費すればなくなり、有り余れば価値が激減しますが、神の言葉の価値は永遠に続きます。私たちにとって必要な糧とは神のことば、人生の機軸となる真理のことばです。

第2は、神様からの召しであり、ミッションです?

スカルの町で弟子たちが町に食料を買いに出かけている間、イエス様は井戸のほとりで一人の女性を信仰へ導かれました。弟子たちが帰って来て食べ物を差し出したときイエス様は「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」(ヨハネ4:34)と弟子たちに語りました。先週学びましたように、「父なる神様のみこころ」とは「一人も失われることなく永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:39−40)という魂の救いを指しています。キリストにある永遠の救いに人々を導くという福音の宣教に奉仕する「宣教への召しとミッション」は、私たちにとってなくてはならない必要な糧、日毎の糧と言えます。

みことばとミッション、この二つの霊の糧をしっかりと求めた上で、生活に係わるすべての必要な糧を祈り求めてゆくことがみこころに適う共同体の祈り・私たちの祈りだと思います。具体的な生活上の必要を求める時に、あれもこれもとふくれあがってしまいやすいものです。どん欲に陥らないように、「あなたがたの天の父はそれがみなあなたがたに必要なのをご存じです」(マタイ6:32)とのイエス様のことばを心に留め、信頼をおいて、求めましょう。

父なる神様がすべてを知っておられるならば祈らなくてもいいじゃないかと言う人がいますが、祈って与えられたことと祈らなくても与えられたこととでは喜びが大きく違います。「求めよ、さらばあたえられます」と言われる神様とイエス様は、祈ったから与えられたという物のやりとりを喜ばれているのではなく、こんな小さな者の祈りにも神様が祈りを聞いて応えてくださったという私たちの喜びをわかちあうことを喜びとしておられるからです。

3 無駄な糧

最後に一つ、豊かさの中で食事を3度食べ、「日ごとの糧を与えたまえ」と祈る私たちですが、ひとつ考えてみたいことがあります。今、日本では「食べないまま捨てられてゆく廃棄食品の問題が深刻になっています。食品産業業界と家庭から出される食べ残しの廃棄食品はそれぞれが約1000万トンに達し、日本は今、世界一の残飯(ジャパンではなくて)大国と化しています。食品会社から廃棄される1130万トンの食品は、貧しい国に送られる世界中の国々からの食料援助の総量に匹敵します。食べないまま捨てられる食料は台所ゴミの30%を占めています。世界中で1日に25000人、500人乗りジャンボジェット50機分の人々が餓えのために命を落としています。時間に換算すれば、1分間で17人の人々が餓えでいのちを失い、しかもそのうち12人は子供たちと言われています。

日ごとの糧を与えたまえと主の祈りを祈る私たちは、家庭において自らの食生活のあり方を見つめ直し、食品の購入に際しては思慮深く計画性をもって購入し、買った食品を無駄なく使い切り、感謝して頂くということを考えなおす時期にきていると思います。

おいしい物をたらふく食べながら「日ごとの糧を与えてください」と祈ることに正直、私は心の中で矛盾を感じていました。フ−ドロスの問題を調べるうちに、豊かさの中においても「日毎の糧」を祈る今日的意味を改めて知ることができた思いがしました。神様が大地や海からの恵みとして与えてくださった食料を適切に購入し無駄なく使い切ることを通して、フ−ドロスの課題に私たち豊かな国に住む者が取り組むことはクリスチャンの今日的責務といえるのではないでしょうか。主の祈りはこうした大切なテ−マを身近な家庭の中から取り組んでゆくことを可能とし、自発的に促してゆく力を持っていると思います。

今日は聖餐式です。聖餐式には、やがて神の国で味わう天国の晩餐を象徴する意味もありますが、2000年前に主が定められた、「パンとぶどう酒」という素朴でありながら最も価値あるいのちの糧を共に頂きながら、日毎の神の恵みに心から感謝したいと思います。

神様の恵みと祝福があなたの上にありますように。