2月の説教 2月8日 礼拝
2009年から「祈りのシリ−ズ」が始まっています


題「天にまします我らの父よ」

「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」
(マタイ6:9)

私たち日本人は「祈り」を知らない民族ではないと思います。正月ともなれば有名神社仏閣に初詣での参拝客が押し寄せ神妙な面もちで手を合わせて新年の幸を祈願しています。しかしながら、彼らに「ところで一体誰に向かって一生懸命、お祈りしているのですか」と問いかけてみると「えっ・・うん? よくわからないけどとにかく神様かな?」と、首をかしげあやふやな答えが返ってきます。誰に向かって祈っているのかわからないまま祈っているのです。誰に向かって祈っているのかわからないというのは、宛名を書かずに手紙をポストに入れるようなものではないでしょうか。それでは祈りが届くかどうか怪しいものです。「祈り」において最も大切なこと、それは祈りをささげる相手をちゃんと知るということだと思います。「私たちに祈ることを教えてください」と願ったお弟子たちに、イエス様は祈るときには「天にいます我らの父よ」(9)と呼びかけるように教えてくださいました。

1 最高の親しみをこめて

主の祈りは「天にまします我らの父よ」という呼びかけの言葉からから始まります。祈りの相手がはっきりしており、祈りの手紙にはちゃんと宛名が記されていることになります。ですから「宛名不明で届かなかった」という失意を味わうことはありません。祈りはかならず届いているからです。さて、ここで用いられている「父」ということばはユダヤの子供たちが父親を親しみをもって呼びかけるときのことばだといわれています。ラテン語に由来するパパ・ママや英語の幼児ことばダディ・マミ−に近いことばです。さしずめ日本語なら「父ちゃん、母ちゃん」と言ってもいいかと思います。親しみと信頼にみちたことばといえます。

さらにもう一つ、古代社会では「父」ということばを用いるには、「息子としての正式な立場」が必要でした。ちなみに養子になった子供はすべての手続きが終わり法律上正式に承認された時に初めて「私のお父さん」という意味をこめて「アバ父よ」と呼ぶことがゆるされたそうです。

私たちはイエス様が十字架の死を前にした緊迫した状況でゲッセマネの園において「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)と祈られたことを知っています。イエス様と父なる神様との間には、父と子としての特別な親しい関係があり、この差し迫った緊迫状態の中でイエス様は父のもとに駆け込んで「アバ父よ」と切に祈り求めました。

しかしながら、私たちのような罪深い者が神様に対して、「父よ」と、親しく呼びかけることは本来許されないはずです。そんな私たちが親しく「天の父よ」と呼びかけることができるのは、イエスキリストの十字架の身代わり死によって罪の赦しをいただいたからです。悔い改めたすべての罪が無条件で赦され、神様との和解に招き入れられ、神の子供とされるという特権が与えられるという、救いを受けたからです。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお 与えになった。」(ヨハネ1:12)

私たちはイエスキリストを罪からの救い主と信じる信仰によって罪の赦しを受け、神様からの贈り物として「神の子供とされ」、神様を「私の父」と呼ぶ特権まで与えられたのです。キリストの御霊が信仰によって心に宿っているから私たちもイエス様と同じく「天の父なる神様」と親しく呼びかけることができるのです。

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わ してくださいました。」(ガラテヤ4:6)

私たちには、「私の父親です」と紹介できる人がいます。しかしもう一人、天には私の父と呼ぶことができるお方がおられます。地上の父親は完全な存在ではありません。我が子を捨てたり虐待したり、子供のお小遣いまで持ち出してギャンブルにつぎ込んでしまうような愛情の薄い情けない親もいます。しかし、天にはもう一人、愛と富と力に満ちた永遠の父なる神様がおられます。「我が子よ」と親しく呼びかけてくださり、私たちも安心して「アバ父よ」とその懐の中に飛び込んでゆけるお方がおられるのです。

私は大学を卒業してしばらく、施設でボランティアをしていたことがありました。小学校1年生の女の子がある日、ぽつりと「私のお父さんね、だれだかわからないの」と私に言いました。私は「○○ちゃん淋しいんだね。でも、天には本当のお父さんがいるよ。お祈りをすればいつでも会えるんだよ」と語りました。単なる慰めのことばではなく、真実を彼女に伝えたいと心から思いました。

どんな状況におかれていても、淋しさや孤独を味わうような時にも、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけて祈り、その胸の中に飛び込んでゆけるお方が天におられます。あなたも手を合わせ目を閉じ、「天におられる私たちの父よ」とお祈りをし、父なる神様の名を呼んでみませんか? 

2 御名が崇められますように

崇めるということばには、「聖いものとする」という意味があります。聖いものとするとは、聖別して特別な扱いすることを指すことばです。ひらたくいえば、神の名を崇めるとは、神様を神様として畏れ敬うことです。聖い神様と罪に満ちた人間とをごちゃまぜにしないで、正しい境界線を引くことを意味します。

日本では1億2千万人の人々がそれぞれの名前をもって生活しています。しかし神の名と人の名を同格にしてはなりません。経営の神様、野球の神様など有名人は生きていながら神様扱いされる傾向があり、死んだ人はみな仏様と呼ばれます。しかし、土から造られた人は人に過ぎず、神になることも神と等しい権威を持つこともできません。神の名を聖別するとは、人を畏れないでただ神を恐れるという敬虔な態度を意味します。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましい  もからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

聖別とは、天の父なる神様と御子イエスキリストの名前を他の神々の名と区別することを意味します。日本では「八百万の神」と昔から呼ばれ、宗教法人だけでも40万以上あると言われています。名前がわかっている神仏の神の総数は80万を超えるそうです。そのようなもろもろの偶像の名前から、聖書を通して啓示された神様の名をはっきりと区別し、神様の御名を特別なものとし、ただ神様にのみ礼拝をささげることを意味しています。旧約聖書の世界に生きるユダヤ民族は、この天地を創造された唯一の全能の神を信じ礼拝をささげました。彼らは土曜日を「安息日」と呼んで他の曜日と区別してすべての労働を休み、創造主なる神様を礼拝する特別な日と定めました。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト20:8)とモ−セを通して神様が命じられたからです。私がイスラエルを旅行したときに安息日にカメラのフラッシュをたくことは「火をおこす立派な労働になる」という理由から禁止されましたが、その徹底ぶりにたいへん驚きました。

安息日にいっさいの労働は禁止されますが、それは神様に礼拝をささげるためです。礼拝をささげることは神様に心を込めて「仕える」ことを意味しており、英語では礼拝をService(サ−ビス)といいます。ですから形式的表面的に礼拝をささげるのではなく、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」(マルコ12:30)という全人的な礼拝と奉仕が求められました。つまり、私たちの生活の土台に「神様への礼拝」を基礎づけることを意味しています。安息日だけのユダヤ教徒、日曜日だけのクリスチャンであってはならないのです。

御名を崇めるとは、このように永遠なる聖い神様と罪ある有限な人間とを区別し、もろもろの偶像とまことの神様とを区別し、神様への礼拝を日々の生活の根底にしっかり据えて生きることを意味します。

旧約時代、神様はモ−セに対して「わたしは有る者」(出3:3)とご自身の名前を啓示されました。ところが神様の名をみだりに唱えることが禁止されたため、後の時代には神様の名前の正式な読み方さえわからなくなってしまいました。そこでイエス様の時代には祭司たちはこのように長々と神の名を唱えていたそうです。

「ほむべきかな、主、われらの神、われらの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、大いなる力ある恐るべき神、あわれみと慈しみをしめしたもういと高き神、万物の創造者、父祖との恵み深い契約を覚えて愛により、ご自身の御名のために救い主を子らに与えたもう者、王、助け主、救い主、盾、エホバよ、アブラハムの盾なるあなたはほむべきかな」(榊原康夫・マタイ福音書講解より)。

ところがイエス様は非常に簡潔に「天にましますわれらの父よ」と集約し、お弟子達にもそのように呼びかけるように命じました。16以上もの神の名を連ねて仰々しく呼びかけるより、たったひとこと「天の父なる神様」と親しく呼びかけるだけで十分であると教えてくださいました。それはご自身の十字架の罪の赦しによって父なる神様との和解と交わりの中に私たちを導き入れてくださったからです。

私たちには、「父なる神様の名」と、唯一の救い主である「イエスキリストの名」が啓示されています。このお方の名に勝る名はなく、永遠のいのちはこのお方の名を知る中に隠されています。

「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
                          (ピリピ2:9)

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリス  トとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

私たちは祈る時、まず「天にまします我らの父よ」と親しく呼びかけましょう。そのたびごとに御子の十字架の貴い身代わりの死によって、神の子供としての特権が与えられたことを常に感謝しましょう。そして御子イエスキリストを通して父なる神様に心からの礼拝を日々捧げる礼拝者であることを自覚しましょう。私たちの永遠の父と救い主のうるわしい名を心から崇めましょう。