1月の説教 1月25日 礼拝
今回から「祈りのシリ−ズ」が始まります


題「主よ、祈りを教えてください」


お正月の間、どの神社仏閣も初詣の参拝客でにぎわいを見せていました。普段、祈ったことがないような人々も神妙な面もちで手を合わせて一年の幸いを祈願している光景がテレビでも映されていました。「祈り」は祈りの方法や祈りの言葉が異なるにしろ、どの宗教にも見られる普遍的な行為だと思います。いいかえれば祈りそのものがあらゆる宗教の原点に位置しているともいえると思います。

「神は人の心に永遠を想う思いを与えられた」(伝道12:3)と旧約聖書は記していますから、人類と共に祈りは存在しており、人間は祈ることなくしては生きられない霊的な存在でもあると思います。

ある時、イエス様にお弟子の一人が「私たちに祈ることを教えてください」と願い出ました。なぜ、彼はそのように願い出たのでしょうか。2つの理由が考えられます。
学者の研究によれば、一つは、ヨルダン川でイエス様に洗礼を授けたバプテスマのヨハネと呼ばれた預言者がその弟子達にグル−プ独自の祈りを教えていたからではなかったかと考えられています。イエス様の弟子達もバプテスマのヨハネにならって自分たち独自の祈りを教えてくださるように求めたのではと考えられています。カトリック教会や聖公会では祈祷書があり、式文化された祈りを一緒に唱えます。プロテスタント教会のように自由に自分の言葉で祈ることはまずありません。全ての祈りがすでに作られ洗練され完成されています。ですからイエス様に対してそのような式文的な祈りを求めたのではないかと考えられています。

もう一つの理由は、イエス様がしばしば祈られ、祈りを大切にされていたからです。イエス様は伝道の生涯に立ち上がる時に40日間の断食による祈りをされました。弟子達と寝食を共にされた時も、弟子達から身を隠してイエス様は朝早くから一人で祈られました。また大切なことを決める場合にはしばしば徹夜で祈られました。祈りがどのように重要なものであるかを弟子達はイエス様の行動から知っていました。しかしイエス様はしばしば一人で祈られましたから何をどのように祈っておられるのか弟子達にはわかりませんでした。そこでイエス様に「祈ること」を教えてくださいと願ったのだと考えられます。

新改訳聖書では「祈りを教えてください」と訳されていますが口語訳では「祈ることを教えてください」と訳されています。英語訳では「Lord, teach us to pray」と訳されています。弟子の願いは祈りの内容とか祈りの方法をイエス様に求めたのではなく、「祈ることそのもの」の本質を教えてくださるように願い求めたのだと思います。

さてイエス様はその願いに答えて、「このように祈りなさい」と「主の祈り」(ショ−トバ−ジョンはルカ11:2−4とロングバ−ジョンはマタイ6:9−13に記されています)を教えてくださいました。主の祈りは先ほどの2つの理由に対する答えにもなっています。主の祈りは、キリスト教会が一致して祈る公同の祈りであり、クリスチャンが捧げるあらゆる祈りの原点となっていることを覚えましょう。

1 主の祈りは「共に祈る」祈りです

一人のお弟子からの質問に対してイエス様は「主の祈り」を、共に祈る祈りとして教えてくださいました。ですから主の祈りは「わたしたち」と主語が複数になっています。この私たちとは誰でしょう。イエス様のお弟子達の間だけで祈る祈りでしょうか。いいえ、イエス様と私たちの祈りなのです。私たちが主の祈りを祈るときにはイエス様もそこにともにおられて祈られるのです。主の祈りはイエス様とその弟子達が共有する祈りであり、その意味における「私たち」なのです。

主の祈りは「天にまします我らの父よ」との呼びかけから始まります。神を父と呼び親しい交わりを保つことが出来るのは神の御子であるイエス様お一人だけです。イエス様の十字架の赦しのゆえに弟子達も神様との和解が与えられ、父と呼ぶことが赦されました。主の祈りをイエス様の名によって弟子達がともに祈る時、イエス様は父との親しい交わりの中に弟子達をも招き入れてくださるのです。そして一つの交わりに祈りを通して生きる者としてくださっているのです。主の祈りによって、私たちとイエス様、そして私たち自身も一つに結ばれるのです。

「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
                          (ヨハネ17:21−22)

「主の祈り」はあくまで「祈り」でもあることも心に留めましょう。しばしば主の祈りを私たちは機械的に読み上げてはいないでしょうか。暗唱していますから気持ちや心がついていかないまま言葉だけで唱和してしまっていることがないでしょうか。主の祈りは祈りです。ですから心を込めて祈りとして祈りましょう。

2 主の祈りは、主の教会を建て上げる一致を生む祈りです

プロテスタント教会では各自が自由に自分のことばで祈りを捧げることができますが、主の祈りを通して、一つの祈りを一つ想いで一つのことばで心を一致させてささげることができます。主の祈りが霊的な一致を可能とします。主の祈りをともに祈ることによって教会に一致が生まれるのです。

共に集うこと、共に祈ること、しかも一つの祈りのことばでともに祈ること、それは教会がキリストのからだとしてうるわしく一致する上で欠かすことができない非常に重要な要素だと思います。教会はキリストのからだとも呼ばれていますから、そこには一致が常に求められます。キリストと私たちとの垂直な関係の一致、私たち信徒同士の水平な関係の一致という双方が求められています。

この会堂の正面には木造りの十字架が掲げられています。十字架は垂直な縦木と水平な横木が組み合わされています。いわば神様との垂直な霊的な関係を示す祈りの縦木と信徒同士の愛の交わりとしての祈りを示す横木とを一つに組み合わせる結び目に「主の祈り」が存在しています。

「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つ             にしてください。」(ピリピ2:2)

主の祈りが教会の基礎となるこのような一致を生みだし、教会の一致を主の祈りが支えているのです。

宗教改革者のカルバンがスイスのジュネ−ブで牧師を勤めたサン・ピエ−ル教会では今日、献金の後の感謝の祈りで「主の祈り」をともに声をあわせてささげるそうです。 主の恵みに応えて私たちの感謝と献身の思いを現す行為として、「主の祈り」が選ばれ、教会における霊的な一致を現す祈りとして捧げられているのです。すばらしい礼拝式順だと私は思います。

主の祈りは先ほども祈りですから心をこめて祈りましょうとお勧めしました。教会でともに祈る時には他の人々と心を合わせて祈ることが大切です。オ−ケストラの楽器演奏者が自分の才能におぼれて一人だけぬきんでて演奏しても全体として美しい音楽を奏でることはできません。ダンスや舞の世界でも同様に他のメンバ−と心を合わせ、呼吸を合わせ、思いをあわせて一つとなって始めて美しいダンスや舞を踊ることができます。主の祈りを祈りとしてともに祈るとき、おのずと霊的な一致が教会にもたらされるのです。

3 主の祈りは、信仰生活を立てあげる従順を生む祈りです

「だからこう祈りなさい」(マタイ6:9)
イエス様は主の祈りを「提案された」のではなく「命じられ」ました。「こんな祈りはどうだろうか」と私たちの選択にゆだねられたわけではありません。私は今まで気がつきませんでしたが今回、メッセ−ジを準備していて新しく目が開かれました。「主の祈り」は教えられたものではなく命令されたものであると。なぜ「命令」されるのでしょうか。それは、私たちの信仰生活は教えられて成長するものではなく、命じられ従うことによって成長するものであるからです。知識として身につけたものは加齢とともに忘れてゆくかあるいは人を高ぶらせます。一方、従順さの中で身につけたものは一生涯その人の宝となります。そして主イエスが命じられたことばに「はい」と素直に従う従順さの中から信仰は成長し建てあげられるということをもう一度この朝、私たちは確認したいと思います。

「このように祈りなさい」と命じられたことばに従順に従い、すべてのクリスチャンはどんなときにも主の祈りを祈り続けなければなりません。祈れないときにも、祈りたくないときにも、いつでも祈り続けることが求められています。ある信徒が「私は祈れないときには「主の祈り」を祈っています」といいました。祈れないとき私たちは祈ること自体をやめてしまいがちです。そうではなく、祈れないときにはそれでも「主の祈り」を祈りましょう。主の祈りはあらゆる祈りの原点なのですから。

もうひとつこんなイメ−ジを思い浮かべてほしいと思います。「命じられた」とは、上から下にむかってことばが語られることです。主の祈りは天に住まわれる神様から地に住む私たちの生活の中に投げ込まれた最初の祈りといえます。みなさん、小石を池に投げ込むとどうなりますか。石が落ちた所を中心にして池の表面に同心円上に波紋がゆっくりと広がってゆきます。主の祈りは、神様から私たちの内的な祈りの世界に投げ入れられた最初の一石あるいは一滴のようなものです。投げ入れられた主の祈りを中心にして同心円状に祈りは広がってゆきます。主の祈りを祈る時、祈りは私たちの生活全般に及びやがて私たちの生活そのものが祈りによって導かれてゆきます。

単独で「主の祈り」が存在しているというよりは、生活のあらゆる領域にまで主の祈りを通して祈りが同心円状に連鎖的に及び、祈りによってすべての生活が導かれてゆきます。まさにその中心に主の祈りは位置しているといえます。こうして形式に陥りがちな私たちの祈りの世界にいのちと躍動がもたらされるのです。

イエス様が弟子達に「このように祈りなさい」と主の祈りを祈ることを命じられましたが、イエス様ご自身が生活の中で主の祈りを実践され、お手本を示してくださっています。一人で祈ることの大切さ、ともに集って祈ることの大切さ、アバ父よと神様との親しい関係の中で祈る喜び、夜を徹しての熱心な祈り、なによりも十字架で祈られた「父よ、彼らをお赦しください」という十字架の赦しの祈りなどを見てもわかりように、主の祈りの内容をことごとくイエス様ご自身が生きておられるのです。ですから私たちが主の祈りを祈るとき、イエスの御霊と呼ばれる聖霊は私たちを祈りの生活化へと招きいれてくださいます。主の祈りを祈るだけでなく、主の祈りを生きるようにしてくださるのです。祈りはここにおいて知識から実践へと変わります。ことばから行動へとチェンジするのです。主の祈りが扉となって神様とのいのちの交わりが大きく開かれてゆくのです。

私の父は若い頃、英会話を学ぶ目的で教会に通い宣教師に気に入ってもらうために洗礼を受けたそうです。ですから宣教師が次の新しい教会を開拓するために教会を離れ代わりに日本人牧師が来たときに教会を辞めてしまいました。ところが宣教師のもとに通っている間に私や妹を教会に連れて行ってくれましたから、「信仰の種」が私たちの心に蒔かれたようです。私は大学時代にクリスチャンになり癌で亡くなった母も臨終に際して信仰を告白して救われました。母の葬儀を通して妹がクリスチャンになりました。そしてついに父が砕かれるときがやってきました。
再婚した母が癌で大手術を受けることになりました。どんなに大切に思っていても手術室の鉄の扉の向こう側へは入れません。父に残された道はただ一つ、祈ることしかありませんでした。父は待合室のソファから降りて床にひざまづいて「神様、助けてください」と祈ったそうです。父の数十年ぶりの祈りでした。小さな祈りでしたが父の信仰が回復するにふさわしい十分な神の恵みがそこから注がれたのです。このことを通して父の信仰は回復し、再びいのちある教会生活が始まりました。

祈りは信仰生活の扉です。祈りの扉が開かれると神様のあふれるばかりの恵みがそこには用意されています。

「主よ、私たちに祈ることを教えてください」と弟子の一人が祈りへのかわきをもってイエス様に願い求めました。私たちも今、そのような霊的なかわきを覚えてはいないでしょうか。私たちも今朝、    

イエス様に願いましょう。「主よ、この私に祈ることを教えてください」と。