礼拝メッセージ

                      使徒の働き18章18~21節         
                                                 加藤真喜男牧師

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                               「福音に生きるパウロ」

イエス様は私たちに、こう言われました。ヨハ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。。イエス様は「私があなた方を愛した様に」と言われました。イエス様は約2000年前ご自身に従わない民の所に来て、その人の身代わりに死ぬ事を決められ、人々の嘲笑を受けながら十字架にかかられました。

そのイエス様は十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言う程、相手を愛されたのでありました。私には、そんなに愛する愛はとうていありません。私は牧師をしながら、自分が足りていないな、愛がないなあと思う事がたくさんあるのです。無理だと思われるかもしれませんが、それでも、時間はかかるかも知れませんが、キリストが与えて下さるいのちが私たちをそう導いていくのです。

今日は皆様と三つの点で、パウロがどう福音に生きたかを見たいと思います。一つ目は、神の恵みをを覚える、二つ目は自分の予定やしたい事に惑わされない、三つめが神の御心に従う。では、一点目神の恵みをを覚えるを考えたいと思うのです。

パウロは、その人生の中で3回伝道旅行で世界を回りましたが、今日はその第二回目の伝道旅行の終わりの部分となります。第二次伝道旅行は2年以上の伝道旅行でありました。そしてその中で、コリントでの滞在が少なくても一年半以上でありました。パウロはこのコリントのために時間を費やし、心を砕いたかと言う事がそこからも良く分かります。そして、このコリントに別れを告げる時が来るのです。

まずは、そのコリントと別れを告げ帰る箇所から始まります。使18:18 パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げて、シリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。パウロは誓願を立てていたので、ケンクレアで髪を剃った

伝道旅行の帰りは、船でありました。約1000k船で何度か乗り継いでシリヤつまりアンテオケ教会に向けて帰るのです。どんな思いでパウロは船に乗っていたのでしょうか?救われた民の顔を思い出し感謝をすると共に、多くの迫害でも全てが神様の御手の中でなされた事を感謝していたのではないでしょうか?

7/26-27の辰口に韓国からの夏期伝道チームが来て下さり子どもの一泊キャンプを行ってくれました。
日本語をしゃべれないのに、良くぞここまで、子どもたちと仲良くなって遊んでくれたと思い、その奉仕に感謝致しました。ある韓国の高校生の青年は冬にも一人ででも来ますと言ってくれました。それが実現するしないに関わらず嬉しい事でした。沢山の恵みがありました。この神様が行ってくださった事は、祝福でしょう。神様の祝福とは何も問題がない事ではありません。どんな問題があろうと神様の支配を信じ、その問題を乗り越えられ、神様がされることを見ていく事でしょう。

言い換えますと、神様が与える喜びとは苦しみも含めての喜びなのであります。パウロは苦しみもありましたが、神様が確かに自分を導いて下さった事を神に感謝したでしょう。パウロはプリスキラとアクラもエペソまで同行しましたが、この二人との出会いも、神様の祝福であったでしょう。道徳的に退廃しているコリントにある意味圧倒されていたパウロでありました。

しかも、金銭的に乏しかった時、恐れを感じた時に与えられたのがこの二人であったのです。それだけではなく神ご自身が恐れるなと言って下さったのです。ここに神の守り配剤を感じたでしょう。私達は神の恵を覚えているでしょうか?ダビデは言いました。

 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

主の恵みを覚えつつ歩みましょう。これは信仰者の力となります。

二つ目は自分の予定やしたい事に惑わされない。私達は自分たちが立てた予定や自分がしたいことを優先しやすいものです。しかし、パウロは違うのです。自分の予定や考えに惑わされないのです。皆様は、自分の予定や考えに惑わされることがないでしょうか?私はいつも何が御心なのか、ぶれてしまうのです。第二次伝道旅行のパウロにとっての当初の伝道の目的地の一つがこのエペソであったでしょう。

パウロの伝道は都市で伝道し、救われた民と教会を拠点にし、次の都市に出かけてまた拠点を造るのです。その大事な点となりそうなのがエペソだったのです。しかし、エペソに何度も行こうとしますが、聖霊に留められました。しかし、最後の最後でエペソに来たのです。パウロは行動に移るのです。

18:19 彼らがエペソに着くと、パウロは二人を残し、自分だけ会堂に入って、ユダヤ人たちと論じ合った

その中で救われる民が起こされるのです。しかもその民はパウロに更に長く滞在するように頼むのですが、パウロはしかし、それを聞き入れず次の様に言うのです。

18:21 「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した

どんな時にも最優先とするべきは神様の御心でした。人が頼もうが神の御心がそこにはならば、どんなに魅力的な提案でも断る。これは大事だと思います。人の目を大事にし、人中心になりがちな私たちにはこのパウロの視点は大事だと教えられます。私達は、主の御心を聞き歩みたいと思うのです。自分が思う正義ではなく、こうなったら良いなという願望ではなく、主の御心をわきまえ知ることが何よりも大事なのです。

パウロはこう言います。ロマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります

まさにパウロはこの御言葉の様に見分けているいたのです。

三つめが神の御心に従うです。ところで、何故パウロはここで、エペソに滞在する事が御心ではないと確信していたのでしょうか?今日の個所には何も書いてありません。するとポイントが22節にあるエルサレムに行く事であったのではないかと見えてきます。

18:22 それからカイサリアに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンティオキアに下って行った

何故エルサレムに行ったのでしょう。

恐らくはパウロは過越しの祭りに合わせて帰らなくてはいけないと考えていた、その為には今船に乗らなくては行けなかったというのです。実は、ある翻訳聖書には、21節の冒頭にこう言う言葉があります。「私はどうしても今度の祭りをエルサレムで祝わなければならない。」この言葉は後世に状況説明として恐らく付け足されたのでしょう。しかし、恐らくパウロの状況を正しく表していたと思います。

 何故エルサレムの祭りに行かなくてはいけないのでしょう。それは恐らく、エルサレムで伝道の報告をし、基金で窮乏している人々に異邦人教会からの捧げものを与え愛を示す必要があったからでしょう。私はここにユダヤ人と異邦人クリスチャンの問題があったのだろう思っています。残念なことにクリスチャンが救われても、依然として古い価値観の妬みや高ぶりに支配されることがあります。

教会の中でもそういう人は出てきます。教会でもあるのですか?そう言われる方がおられるかもしれません。教会内こそサタンが集中的に攻めてくる場所であります。なぜなら、サタンは神の国の前進を阻みたいからです。

だから、ある意味使いやすいクリスチャンをサタンは使い教会を攻める事がある様に思えるのです。パウロは、その状況の中でパウロはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを結ぶ事を考えていたからでしょう。

それが故にこの後も危険を承知でエルサレム教会に献金を持って言っていたのです。恐らくは、そのタイミングを考えて、今エルサレムに献金を持って行かなくてはいけないと考えていたのでしょう。そしてこれが今のパウロの使命であると考えていたからこそ、パウロは本当は滞在して伝道をしたかったエペソを離れたのでしょう。

エルサレム教会を愛しユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致こそ御心であると言う確信であったのです。この時の神の御心は異邦人クリスチャンがエルサレム教会に献金をし、お互いが同じ民であり謙り相手を愛すると言う事を覚える事であったと思うのです。神が祈りを聞かれて捧げものが与えられただからパウロはこのタイミングで帰らないといけなかったのです。

もっとも、エルサレム教会において、ある人たちのパウロを代表とする異邦人クリスチャンに対する思いはひどい事になっていたと思われます。そのくすぶっている人々の声がパウロには聞こえていたでしょう。パウロは何をやっているのかだとか、なっていないと言う声が聞こえていたでしょう。しかし、それに対してパウロがとった行動はむしろエルサレム教会を愛する行動であったのです。

私たちは自分がやられた事や自分の権利や怒りをぶちまけたくなります。でもパウロは違いました。どうして、そう生きられたのでしょうか?それはパウロ自身が

ヨハ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

この言葉を真に理解していたからです。

パウロは、多くのクリスチャンを迫害し、キリスト教を迫害しました。でも、主に出会い、真実を知った時、自分がむしろ神に敵対し神の民を苦しめていたと気付きました。もうとうてい許されない事をしたと思ったはずです。でも、神に逆らうその罪のために、イエス様が十字架にかかられた、そう知った時に、パウロには神の愛が溢れたのです。こんな自分をも愛して下さる神様に出会ったのです。

この愛に出会った時に、パウロはむしろ愛し合う事、そのたましいを愛する事を知ったのでしょう。福音は人の心に届くと、人を変えて行きます。神の子として相応しく生きたくなるのです。私は人に対してとても冷たい目で見ていました。自分の基準で人を測り、良い悪いを考えるのです。しかし、私は、そもそも自分の基準が正しくない事に気づかされていき、神様だけが真実で自分はどこまで行っても罪人だと気が付いていきました。

そして、むしろ人を愛することを求めて行く様に導かれていきました。キリストは私達を変え始めるのです。しかし、信仰生活の中で、そうなれずに敗北をしている様に思うかもしれません。サタンは敗北しているイメージを私たちに与えるからです。私たちは敗北し続ける様に思わされるのです。しかしです。キリストに繋がり、キリストが与えるいのちに生かされるなら、そして神様の側に行けば行くほど、私たちは本来神様が歩むように示して下さる道にあゆめる様になるのです。

反対に自分の力で生きようとすればするほど、クリスチャン生活が辛くなってきます。いつも、イエス様が私にどれほどの愛を与えて下さっているかを覚えたいと思います。私達はまず、神の支配を覚え感謝し続けるものでありたいと思います。その上で私達は自分の思いやお心ではなく、神の御心が何かを聞き、歩んでいきたいのです。

その時、私たちはキリストの愛を頂きながら互いに愛し合う様に導かれていくのです。

ヨハ15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

お祈りを捧げます。