礼拝メッセージ

                      コロサイ書3章15節~             加藤真喜男牧師

                                                  トップページに戻る

 今日もコロサイ書から見たいと思っています。
 前回は、キリスト者が神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着る事を見ました。その上で次のように言われていました。これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。と見ました。神から頂く愛によって、その愛の中を生きる様に導かれていく事を前回見ました。

 

今日はその続きです。
コロサイ3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

今日は3つの点で皆様にお話しをしたいと思います。

 一つ目は「キリストの平和が心を支配するとは」、二つ目は「感謝の心を持つとは」、三つ目は「一体となるとは」を考えたいと思います。

 一つ目の「「キリストの平和が心を支配するとは」について見てみましょう。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのために、あなたがたも召されて一つのからだとなったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
 
 キリストの平和が私たちの心を支配するようにする。キリストの平和とは何でしょうか?これはキリストがもたらす平和でしょう。 それはどの様な平和でありましょうか?この平和をよく表しているのが、次のイエス様の言葉に現れています。

ヨハ14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。ヨハネでは、平安と言われていますが、ギリシャ語でエイネイレイで平和と平安は同じ言葉であります。

 

このエイレ―ネ―は、ただ単に争いや戦いのない状態、争いのない言葉なのではなく、もっと広い意味を持っている様です。健全さや繁栄、調和、平穏にとどまらず、幸福をも意味していました。

 つまり、神様の前に霊的な健康からはじまり、神様の前に不健康な状態ではないことを持っている事なのです。つまり、言い換えるならば、神様との間に最も良い状態を与えるとイエス様は言われていたのです。この平和であり、平安が私たちの心を支配するようにするのです。それでは、もう少し確認致しましょう。このキリストの平和とは一体なんでしょうか? このキリストの平和とは、キリストが与えてくれた平和でした。


  
それはこの世の平和にも繋がって行くでしょうが、それは二次的な部分です。本来私たち人間は、誰かに猛烈に怒られていました。それは天の父なる神様にです。本来神との交わりに生きる様に造られた私たちは、アダムが罪を犯してから神の怒りが注がれる存在になってしまいました。神様は全く聖い方ですので、少しの罪も許すことが出来ない方です。神様が見られるのは私たちの基準ではありません。

 罪に対して全く赦すことが出来ない神様の怒りの結果待っているのは永遠の滅びでした。私たちは時折、私たちが救われることが当たり前だと思いこんでしまいます。あの人はクリスチャンより良い人ではないですか、そう言われる人がいます。でも、それは私たち人間の基準なのです。間違わないでください、神と人間の基準は違うのです。私たちは、アダムが罪を犯してから、当然滅びる者となってしまったのでした。


 そして、その人間に対して唯一の救われる方法を神様から与えてもらったのでした。それが、イエスキリストの十字架です。このイエスキリストの十字架をこの世にいのちがある間に、自分の罪のためだったと知り信じそして神の子として導かれた人だけが救われる道でした。それ以外救われる道がないのです。そのキリストの与える平和が私たちを支配することこそ、本物のクリスチャンの生き方なのです。

そしてお気づきでしょうか。この神との平和は、確実に私たちの人生感を変えていきます。私たちが救われたことの大きさ、赦された者の大きさに気づけば気づくほど、人を赦すもの愛する者へと導かれていきます。何故なら自分が許された大きさに比べれば、目の前の人の行うことに対して人の許しを与えられたものだると見れるからです。だから愛を持って歩めるように導かれるのです。

皆様は一体神様にどれ位の罪を許してもらっているのでしょうか?それは大きな罪だけではありません。小さなちょっとした罪と思えることも全て神が赦して下さっているのです。また、この後、皆様の人生の中で、神様に喜ばれない歩みをすることがあるかも知れません。それも神が悔い改めれば赦して下さるのです。

 神様にごめんなさいもうしませんと本気で思い悔い改める祈りの中で神の赦しは与えられるのです。それは、クリスチャンになる前も、なった後の全ての罪がそうやって神の前に悔い改めるならば許されるのです。ちなみに、この支配するというの言葉は「審査員として行動する」という意味の言葉が使われている様です。スポーツなどでレフリーの様な働きであります。競技中何か問題がないか見ていて決断を下すという事なのです。これはどういう事でしょうか?

 
 こんな例をお話ししたら分かりやすいでしょう。キリスト者は愛するように教えられています。そしてそれが最善の道であることが良く分かっています。しかし、必ず人生の中で私たちには憎しみが湧いてくるのです。この場合どうすれば良いのでしょうか?愛さなくてはいけないと言うことをただ知っているだけでは意味がありません。その時に私たちはキリストに見上げ、キリストの支配が正しいと認めて愛すると言うことを決める時に、平安が与えて下さるのです。

これらの時に、キリストを見上げる時に、私たちはキリストにある支配を見ることになるのです。そして、私の支配ではなくキリストこそが正しい支配者にあると委ねることが出来るのです。



  続いて感謝の心を持つようになりなさいとパウロは言うのです。感謝を持つとは、どうすれば良いのでしょうか?いや、私たちが感謝するというのは簡単でしょうか難しいでしょうか?私たち人間は、嬉しいことより、悲しかったり辛かったことの方を良く覚えているものです。そして嬉しくなければ、心に喜びのない時は感謝が出来ないのではないでしょうか?つまり、感謝はある意味、普通の時には生まれてこない事が多いのであります。

でも、パウロはその方法を以下のように教えてくれているのです。

コロ
3:16キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。

  それは、私達の心に、キリストの言葉を豊かに住まわせるということなのです。キリストの言葉は私たちの心の中で感謝の泉となるでしょう。具体的に言うならば、み言葉の支配であります。それは、御言葉を覚えることから始まるでしょう。また、聖書を正しく理解した部分に従って生きることでしょう。そう言った意味で、聖書を正しく理解することは大変重要でしょう。間違った理解はその信仰を感謝に導かないでしょう。

 

 また、御言葉を読んで示されたことを信仰を持って行うことであります。聖霊は私たちを聖書によって教えてくださいます。そして神様の御心を神の言葉である聖書によってどう歩めばよいかを教えてくださるのです。私たちはそのみ言葉によって神様が喜ばれることを聞き求める様に導かれていくのです。それがキリストの言葉が私たちのうちに豊かに済むことなのです。

 
 それは、クリスチャンは一人だけ、自分だけ神と良い関係にあれば良いのではありません。私たちは一人では気づけない神の真理を兄弟姉妹がお互いに教えあうことも必要であります。もちろん、一六節にあるように知恵を尽くしつつであります。何しろ、人を戒めるとは、言われる人にとっては大変痛いことが多いからです。

 でも、愛しながら、愛されながら、祈りつつ知恵を用いて教えあい、戒めあう中で、神にある自由にそして感謝へと導かれていくのではないでしょうか?それは人の証を聞くことに拠ってかも知れませんし、人の痛みを共有することに拠ってかも知れません。また、互いに祈り合うことによってかもしれません。私たちはキリストにある中で考え方においても行いにおいても感謝にあふれる教会へと成長していきたいのです。



 最後に「一体となること」ことを考えて見たいと思います。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 大きなキリストの愛は私たちを平和に生きる様に導き、感謝の心へと導かれるのです。私は人を恨むではなく、人を愛するように導かれていくと信じています。そしてお互いを愛し合うのが教会なのです。パウロは一五節「一体となったのです」、といっています。

 欧米的な教会感や聖書感がこの世に蔓延しています。それは個人個人が神の前に立っていれば良いという信仰感です。しかし、忘れてはいけないのは、聖書は神の前にある個人の関係よりも群れとして関係が問われていることです。預言者は過去に先祖が犯した罪まで私たちの罪と言っているのです。つまり、一つの群れとして神様が見ておられることをあらわしているのです。そう考えた中で、私たちも私たちの群れとして考えるべきなのです。

 もし一人の兄弟姉妹が痛んでいるならば群れとして痛みましょう。そして心から祈りたいと思うのです。これが主の群れなのでしょう。新しい人を着せて頂き、ますます新しくされる者として生かされているクリスチャンは、どんな時でも、どんな事をも感謝できるのです。その理由は神様にすべて赦され、神に希望があるからです。そしてこの神との平和をもらった者同士は、すでに一体とされていることを見ました。教会として味わい、また積極的にそのように働きかけていけたらと思います。今月は是非教会員のためにお互い祈り合いましょう。

 

お祈りを捧げます。