礼拝メッセージ

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「あなたの信仰があなたを直した」           マタイ9章18~25節

もし、皆様のところに、イエス様から「明日わたしは再臨する」と電話があったとします。皆様は、どうされるでしょうか?ある人にとっては、自分は本当に天国に行けるだろうかと心配になるかもしれません。そしてもしかすると、ある人は「イエス様、申し訳ないのですが、あと1年間お待ち下さい」と言って、天国に入れるような信仰になろうと考える人もいるかもしれません。

でも、きっと、一年間期間を延ばしても、今までと同じように神様に相応しくない自分の姿に打ちのめされるだけではないでしょうか?皆様だったら何と答えるでしょうか?

 救いは恵みによって与えられるものです。そして恵みを受けるには信仰が必要です。

信仰とは、神の子イエス・キリストが私の罪の為に十字架にかかり死なれ、そして復活され、今も生きて父なる神の右の座に座しておられること、それ故キリストを信じる者は死の呪いからの解放され、永遠の命を与えられることを信じることです。

この神の恵みを信仰で受け入れたならば、私たちは間違いなく天国に行けるのです。信仰とはただ神の恵みを受け入れることなのです。ならば、明日、主が再臨されようが恐れる必要はありません。逆に、明日再臨だからと知って、信仰的になろうとしてあれこれしても、意味がないのです。だからイエス様への返事は、「そうですか、では楽しみにお待ちしております」と、電話を切れば良いのです。大変単純な物です。 


 今日は皆様と二つの癒しの記事から、信仰について見たいと思います。一つ目は会堂管理者の娘の癒し、もう一つは長血の女性の癒しです。この記事は実は同じ記事がマルコとルカにも記されています。マタイは全部で9節の記事ですが、ルカは16節、マルコにおいては22節と、実にマタイより2.5倍近い長さで語っています。

マタイは、この記事で沢山の部分の説明を書いていません。聖書で書いてある言葉には意味があります。また、その反対にわざわざ書いていない事にも実は重要な意味があるのです。

 今日の箇所で、マタイは、会堂管理者と長血の女性の信仰をご覧になる、イエスのまなざしに目を向けさせようとしている様に思うのです。この二人の信仰を、イエス様がどのようにご覧になるのでしょうか。そして私たちの信仰を、主はどのようにご覧になられるのでしょうか。マタイはその事を私たちに教えようとしているのです。

 まずは、会堂管理者の信仰を見てみましょう。

9:18 イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」

 この会堂管理者とは、どういう仕事で誰がなれると思いますか?神を礼拝する会堂の管理者です、信仰者としては、人々からあの人はすごいと尊敬されていたでしょうか?尊敬されていなかったでしょうか?会堂管理者と聞いただけで、恐らくは会堂の中では尊敬されている人物と想像できます。

教会でどのような人に会堂管理者を任せるでしょうか?言葉にも考え方にも、信頼のおける人物に会堂管理を任せるでしょう。

この会堂管理者とは、ユダヤ教で次の様な奉仕をする役職でした。つまり、ただ単に会堂を留守番したり掃除をして管理するだけではなく、礼拝のプログラムを立て、教師や説教者を選び、礼拝が正しく行われるように監督し、建物の管理、会堂の実務運営をする役割でした。

これだけの奉仕が集中する人物ですので、当然、長老の一人でした。その様な人が、イエスの前に1人の子の親として真正面からプライドも何もかも捨てて助けてくれとくるのです。ユダヤ当局は、イエスを会堂から追い出そうとする情報が入っていたでしょう。しかし、社会的な地位や名誉などはどうでもよい、娘の救いは他にはなく、あるとしたらここにしかないと思い、ひれ伏して頼んだというのがこの会堂管理者の姿でした。

それがイエスを真剣に信じる信仰へと導いて言ったでしょう。素晴らしいと思います。しかし、今日お読みした箇所には、この信仰に至るまでの記事は、書かれていない部分があります。

 マルコとルカでは、最初、死にそうな娘の所に来てくれとイエスに懇願し、長血の女性の癒しをしている間に、この女の子が死んでしまったことが書かれています。その事がカットされ、この会堂管理者は、イエス様なら娘を生き返らせて下さいと信じている信仰の高嶺から始まるのです。

なぜマタイでは、いきなりこの様な信仰の引き揚げられた状態から書いたのだと思いますか?もっと、この時の事を事細かに省略せずに正確に書いて、父親の姿を教えてくれても良い様に思うのですが・・・。
でも、マタイは今日の箇所から、信仰とは何かを現そうとしているため書かなかったのです。前回の説教からの文脈で、マタイは信仰について注目している事が分かります。16、17節のたとえにある、古い革袋に入れる古いブドウ酒は律法を指し、新しい革袋に入る新しいブドウ酒は福音のことでした。いのちを与える福音について触れた後、次に福音を自分の人生にどう適用するか、信仰をどう働かせれば良いかと教えている流れなのです。

信仰とはイエス・キリストの愛をただ信じてイエスの元にいくことである。今日の箇所は、それ以外他に足すべきではないと言っているのです。そのため、この文脈において、マタイはそれ以外の余計な説明である、つまりイエスがこの会堂管理者の足りない信仰の部分を引き上げた部分を大胆にカットしているのでしょう。

だから、いきなり会堂管理者がイエス様に信頼を置いている信仰が書かれているのです。しかし、私たちはキリストのお取り扱いを受けなければ、この様な信仰には至らないですし、反対に必要に応じて神がこの様な信仰を与えて下さる事も確かです。そう考えるならば、あるかないか分からない信仰かもしれませんが、兎に角イエスの元に行くこの事を大事にしたいと思うのです。それ以外の物は、付いてくるのです。
 

続いて、長血の女性の信仰を見て見ましょう。

9:20 すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。

この血を流し続ける病気を持っているということは、どういう状態だったでしょか?恐らく、血液が流れ続けるとは、体力が失われている状態であったと推測されます。また、マルコには酷い痛みがあったとも書かれています。つまり、彼女は痛みとだるさの中で大変な苦しみの中にいたと言う事です。

しかし、それよりも問題は、旧約聖書においては、この様な人は汚れている人と言われました。血液が流れ出ているだけで、汚いとか伝染病になるということではなかったと思いますが、宗教的に汚れていると言われるのです。だから、汚れをまき散らさない様に彼女は人前に出られませんでした。旧約の律法を見て見ると彼女が触るもの全てが汚れた者となると書いてあるからです。この長血は12年続いていたとあります。10年以上も、痛みにも宗教的にも彼女は苦しみの真っただ中にいたのです。彼女はどうにかして、この苦しみから解放されようと、お金を使い時間を使い、財産をつぎ込みました。でも、どれもこれも役に立たず、医者から酷い目に遭わされたともマルコには書かれています。この女性は12年と言う長きに渡って、人に騙され、上手いこと言われてはお金を巻き上げられ、人を信用できなくなっていたでしょう。彼女の心は悲しみと怒りでいっぱいだったと思うのです。

彼女はこの病気を呪ったでしょう。自分の中から出て来る、この苦しみの状況を彼女はどうしようもないほど嘆いたでしょう。

しかし、この女性は、イエスの話を聞き、こう考えるようになるのです。

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」とです。

この女性は、その確信を元に、イエスのもとに行き、沢山の群衆に触れながら、本来はそれが汚れを振りまく事だから赦されない事を知りながらです。でも、それ以外にはないとイエスの衣の房に触るのです。その結果イエスは言うのです。

 9:22 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

イエスは優しく、娘よと話しかけられるのです。恥ずかしくて人に見られたくないいや、汚れを振りまいたとし、本来ならば律法において糾弾されるべきこの女性に分かるように娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」 と言われるのです。ちなみに、この治ったと言う言葉は、救われたという言葉です。

イエスはこの女性の声にならない叫びをまさに聞きつけられ、その叫びを受け入れ癒されたのです。イエスは、彼女が後ろから来るのも知っておられたのではないでしょうか?彼女の痛みも苦しみも全てご存知で、イエスは律法で汚れているとされている彼女を受け入れられたのです。イエスはどこまでも愛であり人の心を御存じなのです。

そして、この女性の信仰に目を留め、あなたの信仰があなたを直したと言われるのです。この女性は、自分の体が全く治っただけではなくその信仰も褒められました。ところで、皆様は、この女性の信仰をどう思われるでしょうか?

本当に信仰があるならば、前から私は汚れていますと言いつつ、イエス様こんな私を憐れんで下さいと言うべきでしょう。つまり正面からイエスに向き合う事が本当の信仰でしょう。でも、彼女は、群衆の目を恐れ、ばれないようにと群衆に紛れ、後ろからそっとイエスの裾に触れただけでした。本当に信仰を現したのかどうか、分からない様に思えます。実際は、そんなに大した信仰というわけではないでしょうか?それが、実際の所ではないかと思うのです。

でもイエスは、そんな、信仰さえ見下すことなく受け入れられた。そして、このイエスの眼差しは、この女性だけに注がれていない事も覚えたいと思うです。私たちにも同じ眼差しが注がれているのです。私たちは時折自分の事を、信仰がなく情けないと思う事があるかもしれません。でもイエスは、そんな信仰でさえ、しっかりと受け入れて下さり、たった一つの小さな信仰でさえ、人の前に現す事の出来ないものでさえ、主を信頼する小さな一歩を認めて下さるのではないでしょうか?

この長血の女性を癒された後、イエスはヤイロの娘の所に来、そしてヤイロの娘も生き返らせました。

 私たちは今日この個所から、二つの奇跡を見ました。本日の箇所から私たちが今日考えさせられたのは、イエスへの信仰の持ち方であります。それは、小さなからし種の様な信仰かもしれません。
 不十分な信仰かもしれません。会堂管理者も長血の女も、はっきり言ったらもともとはどちらも、そんな大した信仰ではなかったかもしれません。でも、キリストはその二人の思いにお答え下さったのです。それは何故だったのでしょうか?それはイエスがこの二人の真剣な思いを持ってイエスの元に来たからでした。

これは私たちも同じです。クリスチャンは、自分の罪に苦しんだ者です。私たちは自分の罪、自分が神の前にどれだけ汚れた物であるかを知り絶望した者です。自分の罪の大きさ、罪を消したいと思っても次から次に出て来る罪の大きさに私たちは圧倒されるでしょう。

このままでは天国に行けないと私たちは気づいたでしょう。でもそんな私たちが今、どうして平然と神の前に出られているのでしょうか?それは、自分の汚くて弱い私がキリストの元に行きが受け入れられ、そして新しいいのちに導いて下さったからです。

まさに、本当にあるかないか分からない信仰でもイエスの元に行った時、イエスがそれを何倍にもされ受け入れそして、新しいいのちに生かされたのではないでしょうか?神に感謝したいと思います。そして更に神への感謝を燃え立たせていきたいと思うのです。私たちは、どこまで行っても不十分な信仰かもしれません。でも、キリストは優しく私たちに言われるでしょう。あなたの信仰があなたを直したと。

この方の所、今日行き、そして私たちの信仰を祝福して頂きたいと思います。

お祈りを致します。