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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2026年4月26日 
「主の招き」加藤豊子牧師
ルカによる福音書14章7−14節



 「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」(7節)

 主イエスがあるファリサイ派の議員の家に招かれたときのことです。そこに招かれていたファリサイ派の人々が、上席を選んでいる姿が見られたのです。彼らは、自分たちが上席に座るのは当然だ、と考えていたでしょう。イエス様が話されたたとえ話は、招待を受けたらむしろ末席に座るように。そうすれば、後から上席に進んでくださいと勧められ皆の前で面目を施すことになる。という内容で、どうしてこのようなことを話されるのかと不思議に思うところです。しかし、ここでイエス様が一番大切なこととして語られたことは、11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ということです。



 同じ言葉が、ルカ18章、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」というお話の中で語られています。ファリサイ派の人が、自分がこの徴税人のような者でないことを感謝します、と祈ったのに対し、徴税人は目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、罪人のわたしを憐れんでください、と祈りました。主イエスはこのたとえを、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対して話されたとあります。上席を選んで、そこに座るのが当然だと思う人々は、まさに高ぶる者の姿でしょう。



 また、食事会に人を招くときにはむしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい、と言われました。何故ならば、彼らは招かれたことに対して、お返しができないからだ、と言われるのです。ここに、神の国の宴に招かれる人の姿が示されていると思います。そこに招かれているのは、自分は選ばれて当然だ、その資格があるのだと思っているような人ではなく、自分は選ばれる資格もない、神様にお返しできるものなど何一つ持っていない、貧しく無力なものだ、そのように思う人です。わたしたちは皆ただ憐みにより、恵みにより救われた者であることを覚えます。
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 2026年4月19日 
「主イエスの嘆き」加藤豊子牧師
ルカによる福音書13章31−35節



 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(34節)

 エルサレムへと向かう道、エルサレムの町を遠くに眺めながら主イエスは嘆いておられます。何度も繰り返し神は預言者を遣わし、神の言葉を伝え、悔い改めを呼びかけました。しかし人々はその声を聞こうとせず、また神から遣わされたメシア、イエス・キリストを受け入れず、殺そうとしているわけです。イエス様のこの嘆きは、エルサレムの為だけではありません。神の言葉を聞こうとしない、全世界のすべての人々に向けての嘆き、流される涙であります。



 「わたしは、なんど集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 「集めようとなさる神」と「応じようとしない民」という二つの姿が比べられています。「−しようとする」という同じ言葉が用いられていますが、そこには、拒絶する民を尚集めようとされる神、人は応じないが、神は尚も集めようとなさる、という神様のはるかに勝るわたしたちへの愛が示されているように思います。



 エルサレム郊外、オリーブ山の辺りに、この出来事を記念して建てられた「主、泣き給う教会」という教会堂が建っているとのこと。涙の粒をかたどっているという、特徴ある建物で、会堂中央の祭壇、前側には、両方の翼を広げためん鳥と、その羽の下にいる黄色い雛が、モザイクで描かれています。そしてその祭壇奥には広い窓があり、そこからエルサレム市街を見渡すことができます。



 エルサレムを眺め、嘆かれた主イエスの思いを、わたしたちも知るものでありたいと願います。
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 2026年4月12日 
「主の招き」加藤豊子牧師
ルカによる福音書13章22−30節



 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」(23節)

 エルサレムへと向かう道、ある人が主イエスに尋ねました。イエス様は「多い」とか「少ない」というような答えはなさらず、そこにいるすべての人に向かってこう言われました。

 「狭い戸口から入るように努めなさい。」(24節)



 山上の垂訓の中にも、似たような言葉、「狭い門から入りなさい。…」とあります。なぜ、神の国、救いへとつながる門の入口が「狭い」と言われるのでしょうか。すべての人に開かれている門であるはずです。しかし、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが…」というパウロの言葉にあるように、イエス・キリストの十字架が掲げられている道は、愚かな、馬鹿らしいことのように見えて、多くの人はその道を行こうとはしないのではないでしょうか。



 神に選ばれた民だからという自覚を持ち、律法を正しく行うことを重んじるユダヤ人たちは、自分たちは救いの中にいる、そう思っていたのではないでしょうか。ですから、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけはどこか他人事のように聞こえます。自分たちは大丈夫、という思いが透けて見えるようです。「入ろうとしても入れない人が多い」。この言葉は未来のことを言っています。いつの日か主が再び来られる日、戸が閉じられてしまってからでは、遅すぎるのです。そして「後の人で先になる者があり…」とあるように、神様から遠く離れたところにいると思われていた異邦人たちの方が、先に神の国に招かれることになると語られています。



 「努めなさい」という言葉には、競技する、奮闘するという意味もあります。イエス・キリストという戸口から入って始まる信仰の歩みにおいて、「イエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と励まされているのです。
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 2026年4月5日 
「共に歩いてくださる主」加藤豊子牧師
ルカによる福音書24章13−27節



 二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。彼らは12弟子ではありませんでしたが、イエス様の側にいたと思われます。十字架の場面では、イエスを知っていたすべての人たちと婦人たちとは、遠くに立ってこれらのことを見ていた、とあります。この二人の弟子もその様子を見ていたのだと思います。



 二人が話し合っているところに、主イエスが近づき一緒に歩き始められました。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったといいます。不思議な光景です。



 主イエスの問いに対する二人の答えからは、彼らがイエス様のことを、力ある預言者、ローマ帝国の支配から解放してくださる王として見ていたことがわかります。イエスは死んでしまったと失望する彼らに、主イエスは聖書全体を通してメシアについて説き明かされました。二人は尚も進んで行こうとする主イエスを無理に引き止め、一緒に宿に入り食事の席に着きました。そして主イエスがパンを取り、裂いて二人に渡されたそのときに、二人の目が開け、イエスだとわかったのです。



 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(32節)

 聖書の言葉が説き明かされるとき、わたしたちの心が燃える、というようなことが起こる。それはまた、主イエスは生きておられる、わたしに語ってくださっているということを知るときでもあります。



 二人の弟子は、暗い顔をして立ち止まりました。失意、悲しみが大きすぎで、側にいるお方が見えないほどに暗闇に飲み込まれてしまっています。わたしたちもまた、幾度となく暗い顔をして立ち止まることでしょう。しかし、主イエスは近づき一緒に歩き、語ってくださるのです。
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