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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2025年8月 3日 10日 17日 24日 31日 目次に戻る
 2025年8月17日 
「向こう岸へ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章22−25節



 イエス様は弟子たちと一緒に舟に乗り込み、向こう岸へ渡ろうと言われました。イエス様は眠ってしまわれた、とありますが、多くの人々が押し寄せて来て、休む間もない日々であったと思わされます。



 突然の嵐に襲われ、弟子たちは「先生、先生、おぼれそうです」と助けを求めます。「イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。」(24節)

 人類がどんなに進歩しても、自然の力だけはどうすることもできません。風と波を静められた主イエスの姿は、この世界を造りすべてを統めておられる全能の神がおられることを、わたしたちに思い起こさせます。



 嵐の中、右往左往している弟子たちに向かって主イエスは「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われました。原文では「どこに、あなたがたの信仰は」となっています。死ぬかもしれないという命の危険にさらされて、冷静でいられる人はいないでしょう。少しの出来事でも、うろたえてしまうことのあるわたしたちです。「どこに、あなたの信仰は」という言葉は、厳しく弟子たちを叱っているというよりも、「ここにわたしがいるではないか」と弟子たちを励まして、イエスに目を向けるように招いておられる言葉のように思えます。



 昔から教会は、舟にたとえられてきました。ルカが記した使徒言行録には、教会の誕生と使徒たちによる宣教、そして迫害などの厳しい試練の中を通された様子が書かれています。2千年の教会の歴史の中で、苦難の中も必ず、教会という舟の中には主イエスが共におられることを覚え、希望を持って歩むものでありたいと願います。
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 2025年8月10日 
「ともし火」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章16−18節



 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燈台の上に置く。」(16節)

 ともし火というのは、当時一般家庭で使われていた照明器具のことです。夜、電気などない中、真っ暗な室内を照らすために必要なものでした。その灯りを器で覆い隠したり、ベッドの下に置いて見えなくするということは、ともし火の目的を果たせなくすることです。



 このところで一番大切な言葉は18節前半「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」という主イエスの言葉でしょう。ここは先週の「種まく人のたとえ」の続きで語られています。「種」とは神の言葉のことでした。そして道端や石地、茨の地、良い地とは、神の言葉を聞く者の心の状態を表していました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」と主イエスは大声で言われた、とあります。



 「ともし火」は神の言葉のことです。わたしたちを、この世界を照らす光です。しかし、それを隠そうとする、見えなくしてしまう働きもありました。律法学者たちの、主イエスの言葉を拒絶する姿にそれは示されています。しかし、どんなに隠されたとしても、神の言葉の光は明らかにされ、救いの言葉は多くの人に知られるものとなるのです。イエス・キリストの十字架と復活を通して救いの業は成し遂げられ、福音は全世界へと宣べ伝えられていきます。



 聖書の言葉をどう聞いているか…このことは、今もわたしたちが問われていることではないでしょうか。
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 2025年8月3日 
「良い地に落ちた種」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章4−8節



 「種を蒔く人のたとえ」は、主イエスのたとえ話の中で大変有名なものです。そしてイエス様ご自身が、「このたとえの意味はこうである。」と言って説明をされ、「種は神の言葉である。」とはっきりと語られています。



 種が落ちた4つの場所は、神の言葉を受け止めるわたしたちの心の状態を表していると言えるでしょう。道端の落ちた種は、人に踏みつけられます。それは、神の言葉が無用なものとみなされ、捨てられるということです。さらにその言葉は、信じて救われることがないようにと、奪い去られてしまいます。石地には少しは土があったので、芽を出すことができました。しかし、水気がないので枯れてしまった。それは、神の言葉を喜んで受け入れてもそれは一時のことで、しばらくは信じていても試練が襲ってくると身を引いてしまう、離れてしまうことだと言います。茨の地に落ちた種は、せっかく伸びようとしても、茨に遮られて実を結ぶことができません。それは、み言葉を聞いても思い煩いや富、快楽などが邪魔をして、成長できない姿です。そして良い地、すなわちよく耕された心に神の言葉が撒かれると、100倍の実、豊な実を結ぶことができると語られています。



 自分の心が、この4種類のどれにあてはまるのか、と問われると戸惑います。けれどもわたしたちの信仰の歩みというのは、時に石地であり、また茨の地であり、さらには道端のように神の言葉を受け入れない頑なな固い心の時もあると言えるのではないでしょうか。



 わたしたちは自分の力で心を耕すことは難しいかもしれませんが、神様はわたしたちの心を手入れして頑なところを砕き、神の言葉を聞いて豊かな実を結ぶことのできるように変えてくださるお方です。
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