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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2022年5月29日 
「傷ついた葦を折らず」加藤誠牧師
マタイによる福音書12章15−21節



 キリスト教の国際会議の主題に「正義」の文字が入ることが多い。背景には国と国との正義のぶつかり合いがある。お互いが「正義」を信じているので実にやっかいである。人と人の「正義」のぶつかり合いもあるであろう。教会内の場合、難しいのは「自分が神の正義の側」に立っていると思う人の場合、良かれと思って結果的に相手を傷つけてしまい疎遠になるケースがある。



 当たり前だが「神の正義」と私たちの正義は違う。

 「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」(20節)

 実に耳の痛い言葉である。どれだけ私たちは傷ついた葦を折ってきただろうか。「くすぶる灯心」とは出来の悪い灯心のことであろうか?それとも油が切れかけたか寿命のつきそうな灯心であろうか?メシアはそんな灯心を消さないと、預言者イザヤは神の言葉を預かった。主イエス・キリストが誕生する数百年前である。



 浅田容子宣教師のお別れ会に参加した。42年前に渡米し現地で牧師の資格を取った。シロアム教会より小さな教会を牧会しつつ、3州にまたがり「日本人特別伝道」という団体を指導した。東日本大震災で被災した生徒を3年連続で「日本人特別伝道」主催の夏のキャンプに送った。深い傷を負った生徒たちにかけがえのない出会いが与えられた。これもメシアなる主の働きである。
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 2022年5月22日 
「安息日の主」加藤豊子牧師
マタイによる福音書12章1−8節



 ある安息日、主イエスが麦畑を通られたところ、弟子たちは空腹になったので麦の穂を摘んで食べ始めました。するとそれを見ていたファリサイ派の人々が「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言って主イエスを批判したことが記されています。



 当時ファリサイ派の人々は、安息日にしてはならない仕事を39個定め、さらにそれを細かく分け合計156個もの、してはならないことのリストを作っていたといいます。主イエスの時代、このような細かすぎる規則が一般の人々の上にのしかかり、大きな重荷となっていました。



 主イエスは批判するファリサイアの人々に向けて、ダビデ王が昔、サウル王に命を狙われて逃げていた時の話をされました。ダビデと供の者が空腹になって祭司にパンを求めたところ、そこには普通のパンはなく供え物のパンしかありませんでした。祭司はダビデと供の者に、祭司しか食べることが許されていなかった供え物のパンを与えて助けたのです。

 「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」(7節)

 細かな決まり事にこだわってかえって人々を苦しめ、戒めの本質が見えていない彼らに主イエスはそう語られました。



 主の日の礼拝は、神様がわたしたちに与えてくださった休息の場、安息のときです。造り主なる神を覚え、イエス・キリストによって与えられた救いの恵みに感謝する日です。ともすると忙しすぎて走り続けてしまう私たちが、立ち止まって神の言葉を聴く、幸いな日です。
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 2022年5月15日 
「主が与える休息」加藤誠牧師
マタイによる福音書11章25−30節



 28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」との言葉はキリスト者の間では有名なみ言葉である。先日、所用で名古屋の知り合いの牧師に電話をした。彼が牧会する教会は教団の中で名古屋で一番礼拝人数の多い教会である。ここ以上に便利な場所にある教会を知らない。懐かしさもあり要件以外にも様々な話をしたが、相変わらずなのが牧師の殺人的な忙しさである。ゆっくりできるのが日曜の夕方から月曜の昼までである。心も体も守られるように祈らずにはおれなかった。



 主イエスの招きは「誰でも」である。牧師のハードワークはあまり知られていないかも知れないが、仕事や子育てに従事する人で疲れを覚えない人はいないのではないだろうかと思う。それに加えて「重荷」である。人の数だけ重荷もあるであろう。だから「誰でも」と主イエスは招く。



 続いて主イエスは「安らぎ」を得る方法を伝える。キーワードは「軛」と「学び」である。軛とは二頭の牛を首のあたりでつなぐ道具である。それによって力を合わせることが出来る。私の悩み多き日常を主イエスが一緒に力を合わせて歩んでくださるのである。そして私たちは主イエスに「学ぶ」ことが勧められている。。聖書によれば主イエスは「柔和で謙遜」な師匠である。「安らぎ」を必要としない人はいないであろう。それは「疲れ」と「重荷」に苦労する私たちのための「安らぎ」である。この主の約束に励まされて今週も歩んでいきましょう。
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 2022年5月8日 
「来るべき方」加藤豊子牧師
マタイによる福音書10章2−10節



 洗礼者ヨハネは牢の中から、自分の弟子たちを主イエスの所に送ってこのように尋ねました。

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(3節)

 ここでは明らかに、ヨハネが不安を覚え、動揺しているのがわかります。主イエス・キリストが、本当に来るべき方、すなわち救い主メシアなのだろうか、そう信じていいのだろうか…と迷いが生じています。かつては荒れ野で人々に悔い改めを呼びかけ、また主イエスに先立って道を備える者としての役割を担ったヨハネでしたが、主イエスに対する確信が揺らいでしまっています。ヨハネは直接主イエスに会って確かめることができません。弟子たちを通して伝えられた主イエスの働きが、ヨハネが期待していたものと違ったのかもしれません。



 「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまづかない人は幸いである。」(6節)

 主イエスは旧約聖書、イザヤ書の預言者の言葉を示し、その救いの約束が成就し福音が告げ知らされていると語りました。わたしたちの信仰は、様々なことで揺らぎ、またつまづくことがあります。人間の確信ほど、不確かなものはないかもしれません。救いの確かさ、信仰の土台は、わたしたちの中にはなく、イエス・キリストご自身、聖書の言葉にあることを覚えたいと思います。
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 2022年5月1日 
「主の慈しみに生きる」加藤誠牧師
詩編30編5節



 詩篇30編から33編にかけて「慈しみ」という言葉が何度も登場します。そして「慈しみ」という言葉の周辺には「陰府」「墓穴」「怒り」「悩み」「苦しみ」「嘆き」「死」「飢え」などの言葉が取り囲んでいます。それぞれの詩人の状況は時代や環境によって違うでしょう。30編の作者とされるダビデの時代とはおよそ3000年の隔たりがあります。しかし今の私たちの周辺にも同じ問題があると言えます。情報が発達した分、世界的規模で取り組まなければならない問題も明らかになりつつあります。



 聖書の世界は「契約」の世界です。旧約聖書と新約聖書を合わせて「聖書」と私たちは呼びますが「旧約」とは旧い契約、「新約」とは主イエス・キリストによってもたらされた「新しい契約」を意味します。「契約」という言葉が最初に出てくるのは創世記の9章です。9章の小見出しは「祝福と契約」となっています。神との約束に生きる者は神の「祝福」のうちに生かされることを知ります。神の「慈しみ」を知るのです。



 「悩み」「苦しみ」「嘆き」そして「死」の問題は私たちに共通しています。時には悩みや苦しみが余りにも辛く、自分の欠点や不完全さも相まって「神様に見捨てられたのではないだろうか?」と思える時があるかも知れません。しかし聖書の約束は変わりません。神の「慈しみ」闇夜を切り裂いて私たちを支えます。神の約束だからです。
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