←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2021年10月 3日 10日 17日 24日 31日 目次に戻る
 2021年10月31日 
「主イエスの教え」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章38−42節



 先日、マンションの元理事会メンバーと久しぶりに懇談の時を持った。気心の知れた間柄ではあるが、偶然出身小学校の話になった。このマンションは古くからの住民が幅を利かせているが、戸山小学校、戸山中学卒業生が7人中3人いることが分かった。その中で私が最年長であった。不思議なことにそのことが分かった瞬間にその場の空気が微妙に変化した。急に学校の先輩・後輩の図式が出来上がったのである。そして軽い同調圧力のようなものが生じた。



 私自身はどちらかと言えば一人で行動するタイプで同調圧力に対してはつい反発してしまうだけに、先日の出来事は自分が同調圧力を与える側になり得ると分かり少々ショックであった。



 44節の主イエスの言葉は「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」である。「敵」とは穏やかな言葉ではないが、私たちの周辺には「敵」とまではいかなくても、いつも反対意見をぶつけてきたり、私たちを不快にする存在があるのではないだろうか?人間的な知恵で、私たちはお互いの平和のために接触を避けたりするが、主イエスの勧めははるかに積極的である。愛することが出来ないから「敵」なのである。その敵を愛することなど私たちにはできない。



 主イエスは父なる神に私たちの視線を上げさせる。「善人にも悪人にも太陽を昇らせ」とある。太陽が昇ることが神の愛だとすれば、その愛を受けるに相応しい人が神の前にいるだろうか?少なくとも私は相応しくない、と自信をもって言える。一つ言えるのはここが分からないと世界と私たちの周辺に平和は来ないのではないだろうか。
目次に戻るページトップ
 2021年10月24日 
「誓い」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章33−37節



 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったこととは、必ず果たせ』と命じられている。(33節)

 旧約聖書の中に、上記と同じ文言を見出すことはできません。しかし、レビ記19章12節には「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。」とあります。人々があまりにも安易に、神の名を利用して偽りの誓いを立て、そのことによって神の名を汚していることへの戒めだろうと思われます。主イエスは「一切誓いを立ててはならない。」とさらに厳しい言葉を語られていますが、それはあなた方の言葉を偽りではなく、真実なものとしなさいという思いが込められているのではないでしょうか。



 「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。…」(37節)ただ単に強調するために、「然り、然り」と同じ言葉を重ねているわけではありません。ヤコブ書5章12節には「…「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい、」とあります。「はい」と言うべき時に「はい」と言い、「いいえ」と言うべき時に「いいえ」と言うことの難しさを、私たちは知っています。 



 恵泉女学園の創立者、河井道は「はい」「いいえ」「ありがとう」「ごめんなさい」がはっきり言える人になりましょう、と生徒たちに語りました。この4つの言葉を偽りのない、真実な言葉として語ることは難しい課題ですが、聖書の言葉に聴き、導かれて歩む者でありたいと願います。
目次に戻るページトップ
 2021年10月17日 
「和解のすすめ」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章21−26節



 先週は二日ほどACRP(アジア宗教者平和会議)が主催する東京大会にズームで出席した。4つある分科会の中から私は「朝鮮半島の和解と平和」と題した会に参加した。朝鮮半島の和解と平和、そこから少し広げて中国、台湾を含む北東アジアの平和は喫緊の課題と言えよう。なぜなら台湾の友人たちの多くは、2028年までに中国は台湾に武力侵攻をすると考えているからである。



 分科会で印象的だったのは韓国人の発題者が、韓国の若者は朝鮮半島の統一に無関心であると述べた事と、韓国の中年以上の男性は「ごめんなさい」という事が非常に苦手であるという自己批判であった。若者の無関心の背景にOECD(経済協力開発機構)加盟国の中で韓国の自殺率(特に青年層)がトップだということも関係していると思う。青年たちは生き延びるのに必死なのである。しかし未来に明るい展望を見出しにくい、という現状はそのまま日本にも通じる。



 私の周辺にも「ごめんなさい」を言わない人がいる。プライドが高いのである。過去のいきさつから「謝りたくない」人がいる。年齢を重ねると少しづつ増えているような気がする。人をそして自分を赦さないと息苦しさを感じる。



 「和解」は聖書の中心テーマです。今日の箇所には人の怒りが増大してゆく様が描かれている。最終的には「火の地獄」である。つまり人との和解から神との和解まで描かれている。「和解」には「赦し」が必要である。この「赦し」に私たちは生かされていることを覚えたいものである。
目次に戻るページトップ
 2021年10月10日 
「主イエスの教え」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章21−26節



 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(17節)

 「律法」とは、神がイスラエルの民に与えられた戒めのことです。モーセがシナイ山で与えられた「十戒」のことであり、またモーセ五書(創世記−申命記)のことも「律法」(トーラー)と呼ばれます。申命記7章には、あなた方が宝の民であり、大切な存在であるからこそ神は戒めを与えられるのだと、律法が与えられた目的が記されています。「律法や預言者」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。



 主イエスは、旧約聖書はどうでもいい、廃止してもいいとは言われません。主イエスは、その十字架と復活の出来事を通して、救いの道開いてくださいました。イエス・キリストは、旧約聖書を完成するお方として、この世に来てくださったのです。主イエスはしばしば、律法学者や律法主義に対しては、厳しく批判をしておられます。しかし、「律法の文字から一点一画も消え去ることはない…」(18節)とあるように、律法の大切さについても語っておられます。



 律法の中で、どの掟が最も重要なのか。この問いに対する答えはマタイ22:37以下に記されています。「『心をつくし、精神をつくし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」神を愛し、隣人を自分のように愛すること。昔も今も変わることなく、私たちに与えられているこの二つの教えを、心に留めたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2021年10月3日 
「地の塩として」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章13−16節



 主イエスの時代もいつの時代であってもキリスト者がキリスト者らしく生きるのは難しい。直前の段落では「わたしのためにののしられ、迫害され・・・」とある。主イエスが生きたように私たちも生きようとすれば「ののしられ、迫害される」こともあることを私たちは覚悟とはいかないまでも、心の片隅に覚えておく必要があるかも知れない。



 オリンピックは自身の体調が不完全だったために消化不良で終わった感がある。生まれてまだ10年にも満たない「多宗教センター」の活動のTページを担わせていただいたのは光栄であるが、ロンドンやリオとの違いを意識せざるを得なかった。特にロンドンの場合は国が全面的にキリスト教をサポートしたと言える。それだけ「宗教」の価値、期待が高かった。



 東京の場合はコロナが加わり、組織委員会の関心はクラスターを出さないことに集中した。多宗教センターの活動もすべてがオンライン化され、システム作りが大変であった。キリスト教はカトリックや福音派の協力をいただき、9言語、100を超える動画を配信することができた。若手のアーティストたちがほぼ無償で楽曲を提供してくれた。本来ならばマスコミにも宣伝したいところであるが、オリンピックのスポンサーとの関係で厳しいコマーシャル規制があり、それは不可能である。



 数十人におよぶメッセージ動画、賛美動画を見ることが出来たのはオリンピック村の滞在者のみである。世に知られることのない彼らの奉仕は、しかし私には「地の塩・世の光」としての働きに思える。キリスト者のみならず、センターの事務局には仏教や神道の教派からの代表が実務を担った。その志が受け継がれてゆくことを願う。
目次に戻るページトップ