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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2021年4月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2021年4月25日 
「選ばれた者」加藤豊子牧師
ペトロの手紙一 1章1−2節



 1節に「イエス・キリストの使徒ペトロから…」とありますが、この手紙を12弟子の一人であったペトロ自身が書いたかどうかは不明なのだそうです。しかし、イエス・キリストの使徒としての権威を与えられた者がこの手紙の著者である、ということが先ず語られています。手紙の宛先として「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地」とありますが、これらは今のトルコ共和国のある地域です。当時はローマ帝国の属州で、小アジアと呼ばれるところです。そこにある、キリスト教に改宗して間もない、小さな共同体に宛てて書かれてます。その当時迫害を受けて苦しんでいたキリスト者の群れに対して、洗礼の恵みを思い起こさせ、キリストの苦難に与る生き方を示す、力強い牧会的な手紙であるといいます。



 「…各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」(1節)

 この短い聖句の中に、キリスト者とは、この地上にあってどのような存在なのか、ということが3点示されています。ギリシャ語の原文に従うと、先ず「選ばれた」(エクレクトス)者であり、次に「仮住まいをして」(パレピデーモス)いて、さらに「各地に離散して」(デイアスポラ)いる人たち…それがキリスト者の姿であると言えます。



 神様の選び、ということでは、旧約聖書のアブラハムを思い起こします。神の民イスラエルの父と呼ばれたアブラハム、その選びには目的がありました。自分たちが祝福されるだけではなく、この地上のすべての民の祝福の源となることが、選びの目的でした。ヨハネによる福音書には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように…」(15:16)とあります。



 キリスト者にとって、この地上での住まいは仮住まいであり、わたしたちは天の国を目指して歩み続ける信仰の旅人であります。またわたしたちは、この地上でそれぞれの場に散らされ、遣わされた者であります。主の選び、招きに応えて歩む道のりは、小アジアの信徒達と同様に困難なものかもしれません。しかしその道には、2節にあるように「恵みと平和が豊かに」備えられていることを覚えたいと思います。
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 2021年4月11日 
「仕えるために」加藤豊子牧師
マルコによる福音書 10章35−45節



 「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(37節)

 12弟子の中のゼベダイの子ヤコブとヨハネは、自分たちに一番高い地位、役職を与えてくださいと主イエスに願いました。マタイによる福音書によると、この二人の母親が主イエスの前に出て、ひれ伏して同じように願ったと記されています。自分の、また我が子の出世を願う有様は、いつの時代も変わらないことを思わされます。



 この場面は、主イエスが十字架に架かられる直前、エルサレムへ入場される前の出来事です。主イエスはご自分が侮辱され、鞭うたれた上で殺され、三日の後に復活されることを予め弟子たちに告げておられます。そのことは、3回も語られたのですが、弟子たちはその意味を誰も理解することができませんでした。



 主イエスの言われる通り、私たちの社会は偉い人たちが権力を振るい、支配者が民を支配しているという姿が見られます。「偉い」という言葉はギリシャ語でメガス、「巨大な」「大きい」という意味があります。偉くなることを目指すということは、自分をより大きく見せたい、大きく評価してもらいたいということにつながっていきます。そしてそれは、わたしたちが表には出さなくても心の中に抱いている願望と言えるのではないでしょうか。



 「しかし、あなたがの間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(43節)

 主イエスはこの世の価値観とは違う、神の国の価値観を示されました。主イエスの地上での生涯を思い起こすと、そこには権力を振るって人々を支配する姿はなく、いつも弱い立場の人々に寄り添い、自分の居場所を見出せない人々の友となってくださった姿が示されています。「人の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われた主イエスの言葉を、心に留めたいと思います。
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 2021年4月4日 
「主に結ばれて」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一 15章50−58節



 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章の初めからキリストの復活について熱く語る。彼の言いたいことの一つは、私たちの復活は将来の出来事で、そのタイミングは神のみご存じであるが、それは決して私たちの日常の信仰生活とは無関係ではなく、むしろ今を生きる私たちを支えている、という事である。



 使徒言行録9章には、まだ熱心なユダヤ教徒であったパウロがキリスト教徒を迫害しに行く途上で光に包まれ主イエスの声を聞いたことが記されている。このことがきっかけで彼は洗礼を受け、やがて使徒パウロになる。従って主イエスの復活の出来事は使徒パウロにとって決して譲れない事実である。



 使徒パウロ自身、この15章において復活を科学的に説明ししている訳でも、経験的に説明して訳でもありません。彼は復活を「罪と死」の関係から解き明かします。主イエス・キリストの十字架の目的から解き明かします。「最後のラッパ」とか黙示録的な表現が出てきますが、それ以上の具体的な描写はありません。私は個人的には「朽ちるべきものが朽ちないものを着」(53節)という表現で十分満足しています。



 使徒パウロは復活の希望に生かされていました。それは主イエスの十字架によって死につながる彼の罪がすべて赦された、という信仰的確信に由来します。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とこの15章を結びます。使徒パウロの手紙には彼の宣教の様々な苦労が記されています。今日の教会もパウロの時代に勝るとも劣らない宣教の苦労に直面しています。



 「主の業に常に励みなさい」とパウロはコリントの信徒たちに語り掛けます。主の業に励むのは教会や牧師だけではないのです。主に結ばれているすべての者が、復活の希望に今日を支えられて、苦労の多い「主の業に励む」ことが期待されています。何故ならば、その苦労において私たちは復活の主に出会うからではないでしょうか。
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