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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2021年1月31日 
「主の変貌」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章2−13節



 主イエスがなぜ弟子の中から3人だけ連れて高い山に登られたのかは記されていないが、福音書には重要な場面で(例えばゲッセマネ)この3人が登場する。「山」という存在は聖書の中でしばしば神の臨在や神の力の現われの舞台となる。この箇所では主イエスの服が真っ白に輝いたことが記される。主イエスが本来持っていた栄光の姿を彼らは見ることが許されたと解釈できよう。しかもエリヤがモーセと共に現われ、主イエスと語り合う場に遭遇する。何を話し合われたのかは記されていないが、ペトロたち3人にしてみれば、想像だにしていなかった経験であった。



 キリスト教の長い歴史の中でも彼らと同じ経験をした人はいない。なぜ主イエスは彼ら3人を連れて山に登り、ご自分の本来の姿を見せられたのであろうか?8章の後半では十字架と復活が話の中心となっている。勿論弟子たちは主イエスが受けられる苦難について十分に理解していないし、更には復活についても理解できない。だからこそ山に連れて登り、本来の姿をお見せする必要があったのであろう。十字架から最も遠い存在である神の子が、敢えて十字架を選び取ることに触れずしてキリスト教は成り立たない。更に復活の出来事に触れずして、私たちの信仰に希望の光は射してこない。



 動転したペトロは訳の分からない提案をするが、それに対する答えは「これはわたしの愛する子。これに聞け。」である。弟子たちに求められるのは主イエスに聞くことである。「ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」と聖書は告げる。ただ主イエスだけが弟子たちと共におられる。ただ主イエスだけが私たちと共におられる。この約束は慰めである。私たちは多くの別れを経験する。人と分かち合うことの出来ないような痛みや悲しみを経験する。しかし主イエスは十字架と復活を通して私たちと共にいて下さる方になられたのである。
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 2021年1月24日 
「神のことを思う」加藤誠牧師
マルコによる福音書8章31−38節



 主イエスは「あなたは、メシアです。」と答えたペトロをはじめとする弟子たちに、真のメシアの使命について教え始められた。それはペトロたちがイメージしたメシアとはかけ離れたメシアの姿であった。それを聞いたペトロは主イエスを人目につかないようにしていさめ始めようとした。しかし主イエスは逆に弟子たちの面前でペトロを叱る。しかも「サタン、引き下がれ。」という厳しい言葉での叱責であった。



 ペトロはなぜ主イエスをいさめようとしたのであろうか?「恥」という言葉が38節に登場する。「排斥されて殺され」(31節)る主イエスの姿に「恥」を見たのではないだろうか?ペトロが期待するメシアは主イエスが預言したような恥ずかしい姿をさらすべきではないと考えても不思議ではない。彼らは主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨を経て弟子に相応しくつくり変えられるからである。



 もう一つ印象的な言葉が複数回登場する。「自分の命」という私たちにとって最も大切な「命」についての主イエスの言葉である。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」との言葉は強烈な印象を与える。主イエスに従う者は自分を捨て、自分の十字架を背負って主の後に従う者である。



 どうしたら自分を捨てることが出来るのだろうか?答えは明快に記されている。「神のことを思う」(33節)とある。神がなぜ独り子を地上に送り、十字架の死をむかえ、そして復活させられたのかを理解せずに、私たちは主イエスが望むように「自分を捨てる」ことはできない。ましてや「自分の十字架を背負う」ことなどできない。十字架とは私たちが絶対に避けたい重荷であり人によって勿論違う。それを背負って私たちは主イエスの十字架に観念ではなく、自分の肉体を通して近づくのである。真の命に近づくのである。
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 2021年1月17日 
「あなたはメシア」加藤誠牧師
マルコによる福音書8章22−30節



 22節から30節には一見すると関係ないように思える2つの話が記されている。26節まではベトサイダという村で起きた一人の盲人のいやしである。27節からはフィリポ・カイサリア地方での話で、ベトサイダの出来事からどれほど時間が経っているかは不明である。しかし、8章の最初から見ていくと、この2つの話は微妙に絡み合っている。



 21節は非常に緊張感のある主イエスの言葉で終わっている。「まだ悟らないのか」である。きっかけは14節にあるように弟子たちがパンを持ってくるのを忘れ、船にパンが一つしかなかったことである。弟子たちは7章と8章で記されている2つのパンの奇跡を忘れている。神の恵の出来事を忘れている。そしてその事をベースにしつつ主イエスが「パン種」の話をし始めても、弟子たちは全く見当違いの理解をする。



 ベトサイダで待っていたのは、その村人と一人の盲人である。その盲人の癒しを主イエスは村から離れて行った。しかも癒された人に向かって村に入ることを禁じる。「家に帰された」との記述から、その人の家の場所は分からないが、わざわざベトサイダの村人に連れて来られたことが伺える。つまり村人は主イエスの「しるし」を求めたのである。そしてその願いを主イエスは明確に拒否された。



 そしてカイサリアでの主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、核心をつく質問である。ペトロは「あなたは、メシアです」と答える。言葉の上では正しい。ではなぜ主イエスは「御自分のことをだれにも話さないように」弟子たちを戒められたのであろうか?答えはすでに出ている。「まだ悟らない」からである。主イエスがメシアであることの本当の意味を弟子たちは「まだ」悟っていない。そして主イエスは「メシア」という言葉が独り歩きすることを警戒された。イエス・キリストという言葉を人類のほとんどが知っている。しかしその言葉の持つ真の意味を悟っている人がどれだけいるであろうか?
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 2021年1月3日 
「耳が開く」加藤誠牧師
マルコによる福音書7章31−37節



 主イエス一行はティルスの地方からガリラヤ湖に戻るのに、無理やりと思えるほどの回り道を取った。その理由は記されていないが、ティルスでの経験が大きかったのではないかと想像する。



 ガリラヤで待ち受けていた人たちは、聾唖の人のいやしを主イエスに求めた。しかも、「手を置いてくださるようにと願った」とある。どうやら彼らには主イエスに対するイメージが出来上がっていたようである。しかし主イエスは彼らの要望するスタイルは取らず、この人だけを群衆から連れ出す。恐らくは群衆から見えない形でこの聾唖の人と主イエスは対面した。



 指を両耳に差し入れ、更に指に唾をつけてその人の舌に触れられた行為に、どのような意味があったのかは想像するしかない。ただ「あはき」師には訓練によって特別な感覚を指先に宿す人がいる。前任地のS兄もその一人で、優秀な指導者でもあった。触ると分かるのだそうであるが、残念ながらその感覚は私にはない。主イエスはその指先で触れることによって、聾唖の人の苦しみを理解されようとしたのではないだろうか?だからこそ「天を仰いで深く息を」つかれたのであろう。



 「エッファタ」の声と共に、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった人を見て驚嘆する人々に、主イエスは誰にも話さないようにと口止めする。人々が話せば話すほど、その出来事は主イエスの思いとは別方向に向かってしまう事を主イエスはご存知であった。 ここで思わされることは、主イエスはその指で触れるほどに私たちの苦しみを聞き取ろうとされるのに対して、私たちは一体どれほど主イエスの言葉を通して主の思いに近づこうとしているのであろうか、ということである。
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