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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2020年9月27日 
「種蒔く人」加藤誠牧師
マルコによる福音書4章1−9節



 主イエスの「種を蒔く人」のたとえ話は、教会学校など子どもたちの礼拝でもよく語られてきたお話です。主イエスの時代、種まきは、種を手でつかむと広い農地にばらまき、後から耕していくというように、大変大雑把な感じで行われていたそうです。ですから、蒔いた種が道端や石地、茨の地などに落ちてしまうということもあったわけです。



 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(14節)

 「種」とは神の言葉、御言葉であると、主イエスご自身が説明をされています。そして道端、石だらけの地、茨の地、良い土地とは、その御言葉を聞いた人、その心を表しています。「道端」に譬えられている人は、御言葉を聞いてもそれが留まらない、すぐ忘れてしまう人。「石だらけの所」に譬えられている人は御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、困難や迫害が起こるとすぐ躓いてしまう人。「茨の地」に譬えられている人は、この世の思い煩いや富の誘惑によって実を結ばない人。「良い地」に譬えられている人は、御言葉を聞いて30倍60倍100倍の実を結ぶ人のことであると語られています。



 「あなたは自分がどの土地に当てはまると思いますか。」と問われたら、私たちはどう答えるでしょうか。私は道端のように、御言葉を拒否する者ではない、しかし、私は良い土地です、ですから何十倍もの実を結ぶことができます、と自信をもって言い切ることもできない。信仰の故に困難に直面するようなことがあったときはどうでしょうか。また日々私たちは様々な心配事や思い煩いがあり、誘惑にもさらされます。



 種を蒔く人はまた、育てる人でもあることを覚えたいと思います。御言葉の種を蒔いてくださった主イエスはまた、わたしたちの信仰を養い育て、実を結ぶことのできる良い地へと変えてくださることができるただ一人のお方です。ヨハネによる福音書15章のぶどうの木の譬えのように、私たちは主イエスにつながる、とどまり続けることによって、実を結ぶものへと変えられていきたいと願います。
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 2020年9月20日 
「主イエスの母、兄弟」加藤豊子牧師
マルコによる福音書3章31−35節



 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」

 主イエスに対し、「あの男は気が変になっている」という評判が立っているのをを聞いて、家族は慌てて主イエスを連れ戻すためにやってきたと思われます。そのことを聞き、主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われまた「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と答えられました。



 この主イエスの態度、言葉というものは、ご自分の家族に対して冷たいように感じられるかもしれません。しかし、この言葉は、主イエスの周りに集まり、目の前で一生懸命話を聞いている人々に向けて語られています。そこには貧しい人、病んでいる人、さらには家族から捨てられたような人、人々から嫌われ、ユダヤの共同体の中に自分の居場所を見出せない、孤独な人も多くいたのではないでしょうか。彼らにとって、血のつながりを超えて主イエスを通して新しく家族になることができるという言葉は、希望と喜びを与えたのではないでしょうか。



 主イエスの周りに集まって話を聞いている人々とは対照的に、主イエスの家族は「外に立ち」外から主イエスを呼び出そうとしています。そこには、主イエスの側に自分から近づいていこうとはしない、批判的にしか見ることをしない姿勢が感じ取れます。わたしたちも、主イエスの側にいたはずなのに、いつの間にか外に立つ者になってしまうということがあるかもしれません。



 主イエスはさらに「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われました。「神の御心を行う」とは、何か特別なことをすることが求められているわけではないと思います。わたしたちが礼拝で、み言葉を聴く者であること。日々の生活の中でみ言葉に親しみ、祈りつつ歩む者であること。そのことが神の家族に求められていることを覚えたいと思います。
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 2020年9月6日 
「主イエスの心」加藤豊子牧師
マルコによる福音書3章1−6節



 マルコによる福音書、3章まで読み進んできましたが、主イエスとファリサイ派の人々などが対立、対決する場面が何度かありました。このところでは、さらにその緊張感が、高まっているのが感じ取れます。



 安息日に主イエスが会堂に入られると、そこに片手の萎えた人がいた、とあります。詳しい様子はわかりませんが、おそらく片手が不自由な、自分では動かすことができない人だったのでしょう。



 「人々はイエスを訴えようようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(2節)

 ファリサイ派の人々は一つのことに注目していました。それは、主イエスが安息日に規定を破って、この病の人を治すかどうかということです。主イエスは彼らの思惑をすべてご存知でした。「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」という主イエスの問いかけに、彼らは沈黙をするのみでした。



 真ん中に立っているこの人を、彼らはどのように見ていたでしょうか。癒しを、救いを必要としている一人の人が、そこにいることが見えていません。痛みを覚え、思いやる眼差しはそこにはなく、主イエスを規定違反で陥れるための道具のようにしか見ていません。



 主イエスは、律法の中でどの掟が最も重要でしょうかと問われた時、第一は「心を尽くし、精神をつくし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」第二もこれとおなじように重要で「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:37−)と言われました。律法は、神を愛する、隣人を愛する、この二つに尽きると主イエスは語られます。



 コロナ禍で、緊張した日々が続いています。誹謗中傷を受けたり差別されたりということもあります。コロナよりも人が恐い…という言葉も聞かれます。相手を思いやるゆとりもない状況になりやすいですが、主イエスの教えてくださった戒めを心に留め、祈りつつ新しい一週間を歩ませていただきたいと願います。
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