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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2020年6月28日 
「神の時」加藤豊子牧師
マルコによる福音書1章14−15節



 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)

 ガリラヤで宣教活動を始められた主イエスが発せられた、最初の言葉が記されていいます。「時は満ち」とありますが、時が満ちるとはどういうことでしょうか。ギリシャ語で時を表す言葉には二つあります。「クロノス」というのは時計、クロックの元になった言葉で、1分60秒、1時間60分と規則正しく刻んでいく時間です。



 今日の聖書箇所で用いられている「時」はそれとは違い「カイロス」という言葉です。これは自然に流れていく時間とは違う、特別な意味を持った時、神が働かれる時を示しています。何の意味もなく、たまたまということではなく、神様の長い救いのご計画の中で、旧約聖書で預言者たちによって語られ、待ち望まれてきた救い主、メシアが、神の時が満ちてこの世に来られたということを意味しています。



 「悔い改めて福音を信じなさい」これは、主イエスの命令というよりも、招きの言葉です。「悔い改める」とは、後悔する、反省するということではありません。向きを変えるということです。神に背をむけ、自分の思うがままに生きてきたその在り方を変えるように主は招いておられます。招きに応えて主イエスを信じて歩み道は、また主イエスの弟子として歩む道でもあります。楽に生きられるというような人生が保証されている道ではありません。しかしこの道は、神が今も生きて働いてくださることを体験できる、幸いな道であることを覚えたいと思います。
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 2020年6月21日 
「荒れ野の主」加藤誠牧師
マルコによる福音書1章12−13節



 主イエスはバプテスマのヨハネによる洗礼後ただちに聖霊によって荒れ野に送り込まれた。それは主の意志というよりは神の意志の働きであった。その荒れ野で40日間過ごし、サタンからの誘惑を受けられたことをマルコは伝える。しかし、マタイやルカが具体的に誘惑の内容を伝えているのに比べ、マルコの記述は実にあっさりとしている。勿論マルコがマタイやルカのようにその内容を知らなかったとは考えにくい。むしろマルコの強調点は13節の後半にあると考えるのが普通であろう。



 マルコは荒れ野で「野獣と一緒におられた」ことと「天使たちが仕えていた」ことを伝える。ここでも具体的な描写はない。しかし私たちはイザヤ書11章6節の言葉を思い出さずにはいられない。「おおかみは子羊と共にやどり・・・」10節には「その日には」とあるとおり、これは主の日、私たちのはるか先にある未来の神の救いの世界の描写であるはずなのですが、マルコはあたかも荒れ野で実現したかのように私たちに伝えます。



 主イエスにとって荒れ野は現実であったように、私たちにも現実です。礼拝から一歩外に出ると、私たちが関わりたくない荒れ野が待ち受けています。しかもそこには様々な「誘惑」も待ち受けています。私たちが忘れてならないのは、主イエスは「荒れ野」においても主であることです。主イエスが荒れ野において神の救いの世界を私たちに見せてくださったように、私たちの荒れ野のただ中において、主が共にいて下さるという一点において、私たちも野獣が共にいて、天使たちが仕えている現実を見ることができるのではないでしょうか。
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 2020年6月14日 
「イエスの洗礼」加藤豊子牧師
マルコによる福音書1章9−11節



 「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(4−5節)



 ヨハネが授けていたのは「悔い改めの洗礼」でした。各地からユダヤ人たちが続々と集まり、ヨハネのもとにきて罪を告白し、洗礼を受けたことが記されています。「罪」とは「的外れのこと」であると言われます。それは、わたしたちの在り方、生き方が問われている事柄です。神を神とせず、無視して生きているというわたしたちの在り方というものが、根源的な「的外れ」と言うことができるのではないでしょうか。そして「悔い改める」とは、「向きを変える」ということです。今まで神に背を向けて生きてきたとするなら、そこから向きを変えて、神を仰ぎ見て生きる者とされるということです。



 洗礼を受けた多くのユダヤ人たちに混じって、主イエス・キリストも洗礼を受けられました。不思議なことです。何故なら、罪の赦しを全く必要とされない方が悔い改めの洗礼を受けられたからです。主イエスは、その時洗礼を受けていた、罪の赦しを必要とする多くの人々と同じ所に、ご自分の身を置いてくださいました。神の子でありながら、一番低い所にまで、罪人と同じ所にまで下ってくださいました。そしてそのお方が十字架への道を歩まれ、わたしたちのために救いの道を開いてくださったのです。
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 2020年6月7日 
「イエス・キリストの福音」加藤誠牧師
マルコによる福音書1章1−8節



 マルコによる福音書1章1節は「神の子イエス・キリストの福音の初め。」という書き出しである。元のギリシャ語の語順では「初め」「福音」「イエス・キリスト」「神の子」であり、この4つの言葉で新約聖書の中心メッセージが語られている。つまり福音書そして新約聖書が私たちに今日も語りかけているのはイエス・キリストとは一体何者か?である。



 そもそもイエス・キリストを苗字と名前のように捉えるのは誤りである。キリストとは敢て表現するなら役職名である。私はマンションの中では加藤牧師、海外では加藤世界宣教幹事で通っている。私たちがイエス・キリストと表現する時、それはイエスという人がキリスト(メシア・救い主)である。(そう信じる)という意味である。



 「福音」とは「良き知らせ」という意味のギリシャ語である。イエス・キリストの福音とは単に主イエスが語った言葉だけを意味するわけではない。イエス・キリストの誕生から十字架、復活の生涯そのものが神から私たちに宛てられた「福音」として受け止めるのが信仰である。



 「教会」とはこのイエス・キリストを信じる者たちの集まりである。聖書が「信じる」という表現を使う時、それはイエス・キリストの「従う」ことと同じ意味を持つ。だからこそ当然マルコによる福音書にはイエス・キリストに従った人たちが登場する。どのように彼らが主イエスを信じ従っていったのかを学び、それを今日の私たちの状況に生かして主と共に歩みたいのである。
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