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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2020年1月26日 
「キリストの香り」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙二2章12−17節



 「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(15節)

 道徳の本ならば、皆さんは、キリストによって醸し出される良い香りになってください、とか良い香りを漂わせるようにしよう、となるのではないか。しかし、パウロの言葉は違う。わたしたちはキリストによって献げられる良い香りです、と言い切っている。



 コリントの教会は、大変問題の多い教会だった。悲しみの原因となった人がいたことが5節以下に記されている。パウロはその問題になった人が「悲しみにうちのめされてしまわないように、赦して力づけるべきです。」と勧める。



 教会の中で失敗をした人、誰かを傷つけたりしてしまった人がいるなら、そしてその人が心から反省をし神の前に悔い改めるならば、ぜひ赦して、力づけてあげて欲しい、教会というところは、人を裁くところではなく、人を赦して励まして愛するところだ、とパウロは言いたかったのではないか。



 パウロだっていつも力強いというわけではない。パウロ自身も悩み苦しみながら手紙書いたとある。そして、神はわたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださる、と語る。



 神はわたしたちのような不完全なものを通して、キリストを知るという香りを漂わせてくださる。わたしたちを通して福音を伝えるという業をなさろうとしてくださる。わたしたち一人一人もそのことに招かれていることを感謝したいと思う。
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 2020年1月12日 
「慰めは神から」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙二1章1−9節



 「慰め」という言葉が何回も使われています。キリスト者はよく「主の慰めと平安をお祈りします。」という言葉を使います。主の慰め、神様がくださる慰めとはどのようなものか、わたしたちは理解しているだろうかと改めて思わされます。



 「慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神」(3節)

 神様が、わたしたちに慰めを豊かにくださるお方であることが語られています。慰め…パラクレーシス(ギリシャ語) という言葉は「傍らに」「呼ぶ」という二つの言葉からできています。「傍らに」というのは、その人のすぐそばに、同じところに立ってということです。



 遠く離れたところ、あるいは高い上の方から見下ろすのではなく、わたしたちのすぐそばにいて語りかけてくださる、そのような慰めを、わたしたちはどこに見出すことができるでしょうか。その慰めはイエス・キリストの中に見出すことができる、と語られています。すべての人の救い主としてこの地上に来られたイエス・キリストは、十字架への苦難の道を歩まれ「あらゆる点においてわたしたちと同じ試練に遭われ」(ヘブライ4:15)とあります。このイエス・キリストの内に慰めはあらわされ、イエス・キリストご自身がわたしたちにとっての真の慰めです。



 パウロは耐えられないほどのひどい圧迫を受け、生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いだった、と自分が経験した苦難を語ります。その苦難の中でパウロは、自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするように導かれたと証ししています。わたしたちも、イエス・キリストを通して大いなる慰めが与えられていることを覚えつつ、神に信頼して新しい年を歩んでいきたいと願います。
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 2020年1月5日 
「神と語るモーセ」加藤誠牧師
出エジプト記34章29−35節



 モーセは山上で神と共に40日40夜過ごす。パンも水も取らなかったとは私たちの常識では窺い知ることのできない状況である。モーセは神と語ったが、その様子はすでに33:11で先取されている。「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。



 神と語り終えて下山したモーセの顔は光を放ち、イスラエルの人々は彼を恐れて近づけなかったと聖書は語る。モーセは彼らに近づくよう命じ、シナイ山で神から語られた通りのことを彼らに命じた。恐らくはモーセが語っていた間中彼の顔は光を放っていたのであろう。語り終えた彼は顔に覆いを掛ける。



 モーセは神の御前に行き、神と語る時は顔覆いをはずしていた。その後モーセは神と語る時まで顔に覆いを掛けた。新約聖書で使徒パウロはこのことを新しく解釈する。

 「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。」(Uコリント3:13)

 パウロは旧約と新約を対比して述べているのだが、どうやら出エジプトでモーセが顔覆いを掛けたのは、消えてゆく顔の光を人々に悟られないための行為であったと理解しているように思える。



 旧約も新約も実は同じことを言っている。モーセは神と語る時顔覆いをはずした。パウロもコリントで同じことを言っている。私たちは顔覆いをはずして神と語るのである。自らの素顔を私たちは神にさらして良いのである。
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