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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2019年11月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2019年11月24日 
「神の怒り」加藤豊子牧師
出エジプト記32章1−14節



 「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」(1節)

 神様の戒めが刻まれた石の板を受け取るために、モーセはヨシュアを連れてシナイ山に登りました。40日40夜山にいた、とありますが、民はなかなか下りてこないモーセを待つことができませんでした。「エジプトから導き上った人、あのモーセ」とありますが、イスラエルの民をエジプトから導かれたのは、モーセではなく神ご自身です。目に見えない神に信頼を置くことができず、モーセという人間に依存している民の姿があります。



 民はアロンに迫り、神々を造ることを求め、アロンは金を集めて型を造り、若い雄牛の鋳像を造りました。自分たちで高価な金を出して造った神というものは、自分の思い通りになる神、自分の願いを叶えてくれる、自分にとって都合の良い神であると言えます。



 偶像礼拝とは、刻んだ像を拝むことだけではありません。神様以外のものに依存すること、財産や社会的地位、自分の能力に依り頼み、神は必要ないとする姿勢は偶像礼拝につながります。教会につながり信仰をもって歩んでいるつもりでも、私たちが目に見える指導者に依存したり、また信仰の仲間との交わりを頼りにしすぎていると、神様ご自身に信頼を置くことからそれてしまうことがあるかもしれません。



 モーセは自分の命をかけて、民の罪を赦してくださいと神に願い求めました。この姿に、私たちは真の執り成してである、主イエス・キリストを見ることができます。
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 2019年11月17日 
「契約」加藤誠牧師
出エジプト記24章1−18節



 神様がイスラエルの民と契約を結ばれる、その場面が記されています。モーセは犠牲として献げられた動物の血の半分を祭壇に振りかけ、もう半分を民に振りかけました。そして「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(8節)と宣言しました。



 血は、命そのものを表しています。神様と民の契約、この契約には命がかけられていることが示されています。神様は、人間と契約を結んでくださる神であり、この契約関係は「愛」と言い換えてもいい、そういう意味では契約という言葉よりも誓約という言葉の方が、むしろ適当である、とある神学者が言っています。神様は私たち人間に対して、愛を誓ってくださり、そこに命をかけてくださるのです。



 「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行い守ります。」(7節)

 民は皆、声を一つにしてそう約束しますが、この後すぐにこの約束は破られ、神に背くことになります。



 私たちには今、新しい契約が与えられています。それは、主イエス・キリストにより、その十字架の死と復活とによって神様が与えてくださった契約であり、教会は、キリスト者は、この新しい契約による新しい神の民とされています。新しい契約に於いては、雄牛ではなく神の独り子、主イエス・キリストの命が献げられました。自分の努力や行いによって救いが得られる道ではなく、主イエス・キリストを通して罪の赦しが与えられる、新しい道が備えられたのです。ここに、神様の愛が表されています。この愛に応えて生きるようにと私たちも招かれていることを、深く心に留めたいと思います。
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 2019年11月3日 
「神の法に生きる」加藤誠牧師
出エジプト記23章1−9節



 「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。」(9節)

 今や新宿区に住む人の8人に1人は外国人だと言われている。町中で聞かれる言語は中国語や韓国語が多い。最近ではベトナム語も聞かれるようになった。アジア人が多いせいかもしれないが、それなりに日本に馴染んで暮らしているように思えるが、寄留者になってみなければ寄留者の苦労や気持ちは分からないであろう。



 仕事で海外に行く機会が多い。30年以上海外で暮らしていても日本語を聞くとホッとすると皆さん言われる。やはり独特の緊張感があるようである。そして日本語で説教する宣教師が今も求められている。



 エジプトを脱出する時に壮年男子が約60万人、「そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。」(12:37)とある。正確な数は分からないが、種々雑多な寄留者がイスラエルの人たちの中に生活していた。言語や生活習慣の違いから日常的にトラブルが起きたであろう。ひょっとすると3節の「弱い人」は寄留者なのかも知れない。かつて寄留者であったからこそ寄留者の気持ちを知り公平にチャンスを与える社会をイスラエルは作ろうとしていたのであろう。



 これは人の目線では不可能に思える。敵対し自分を憎む者の迷っている家畜を、相手のために連れ戻すなどということは、自然の人間の感情からすると難しさを覚える人もいるであろう。しかし神は命じるのである。「必ず彼と共に助け起こさねばならない」と。イスラエルに与えられた律法は、人を生かし社会を生かそうとする律法であった。
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