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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2019年9月29日 
「神の民」加藤豊子牧師
出エジプト記19章1−9節



 19章、ここから第2部、後半が始まります。エジプトを脱出する物語が出エジプト記の中心と思われますが、後半に記されている、神様がイスラエルの民と契約を結ばれる、モーセが律法(十戒)を受け取るという出来事は、前半同様、或いはそれ以上に重要な部分であります。



 神様がここでイスラエルの民と交わされた契約は「シナイ契約」と呼ばれます。人間同士で交わされる契約は、基本的には対等な立場で、条件をお互いに確認して結ばれるものです。しかし、神様とイスラエルの民との契約は、神様の側から与えられたものです。民が特別に能力が高いから、優秀だからという理由で選ばれたわけではありません。民がどのように不誠実であったとしても、神様はその契約を保ち続けてくださるのです。



 神様はイスラエルの民に対し、あなた方は「宝の民」、となり「祭司」の役割を担い、また「聖なる民」となると語られました。

 私たちはこの世の中で、様々な評価にさらされています。高い評価を受けて喜ぶこともあり、反対に願ったようには評価されず、つらい思いをすることもあります。しかし神様は、私たちを、何ができるとかできないとかという、そのようなものさしでご覧になりません。私たちの存在そのもを、大切な宝として見ていてくださいます。



 そして「祭司」とは、神と人との間に立って執り成す役割を担う存在です。イエス・キリストご自身も十字架に架かられることを通して、罪人である私たちと神様との間を執り成してくださいました。執り成す者となること。それは教会、すべてのキリスト者に託されてきた役割であると言えるでしょう。イスラエルの民が荒れ野を旅したように、私たちもこの世の中で信仰をもって生きることには様々な困難、戦いがあります。しかし神は「聖なる民」すなわち神のものとされた存在として歩んでいくようにと招いておられます。
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 2019年9月22日 
「主はわが旗」加藤誠牧師
出エジプト記17章8−15節



 17章ではアマレクとの戦いが記されています。アマレクはこの箇所だけでなく断続的にイスラエルを悩ませる民族として登場します。士師記のギデオンの時代にも現われ、サムエル記にもイスラエルの敵として登場します。



 ここでヨシュアが登場します。ヨシュアはモーセの後継者ですが、ここでは最前線に立つ戦闘部隊の長の役割が与えられます。モーセにはモーセの戦いがありました。それは神の杖を手に取り丘の頂でイスラエルのために祈る戦いでした。聖書は「モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった」と記します。そしてモーセが疲れて手が重くなったときには、アロンとフルが両側からモーセの手を支えました。その結果ヨシュアはアマレクを打ち破ったと聖書は記します。



 モーセの時代を単純に現代と比較は出来ません。しかしそこには現代にも通じる「教え」があります。私たちにもさまざまな戦いがあります。競争社会の中に多くの人はいます。人と人のトラブルも私たちは経験します。キリスト者と生きるためには「祈り」が必要です。祈られる必要があるのです。時には「祈り手」になる必要があるのです。モーセが疲れを覚えたように、私たちにも祈れない時があります。しかし私たちは祈れない私たちを支えて下さるお方がおられることを忘れてはなりません。



 先週、千葉の台風の被害を調査しに行きました。目的地の一つが「かにた婦人の村」でした。すでに地区の教会のボランティアが入り、ブルーシートが張られていました。なにより感じたのはここは多くの人に祈られている所だということです。誰かの祈りによって私たちは支えられているのではないでしょうか?
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 2019年9月15日 
「主を試す」加藤豊子牧師
出エジプト記17章1−7節



 「そこには民の飲み水がなかった。」(1節)

 防災の備蓄品で最も重要なのは、飲料水だと思います。荒れ野を旅するイスラエルの民にとっても、飲み水がないというのは生死に関わる問題です。なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか、我々を殺すつもりか、とここでも民のつぶやきが繰り返されています。



 これまで神は、不平を言う民のためにマナやウズラを備え、また苦い水を飲めるようにしてくださるなど、必要な助けを与えてくださいました。しかし、そのことがまるでなかったかのように、人々は目の前の現実しか見えず不平不満を言い続けています。私たちも、過去にどれほど神によって助けられ守られて、今日まで歩んで来ることができたことか。わかっているはずなのに、目の前の大きな問題、難題に直面すると、もう心穏やかではいられなくなります。私たちもイスラエルの民と同様に弱い、もろい存在なのだと思わされます。



 「イスラエルの人々が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。」(7節)

 神様は果たしてわたしたちの間にいてくださるのかどうか…そのような疑問、問いかけを持つこと自体は神を試すことにはなりません。しかし、神の存在を確かめるために人間が神を動かそうとすることは、神を試すことになるのではないでしょうか。主イエスご自身も、荒野の誘惑に於いて高い所に連れていかれ、神の子なら飛び降りたらどうだと迫られました。その時主は、「あなたの神である主を試してはならない」という神の言葉をもってその誘惑を退けました。神を試そうとする姿勢は、自分を神よりも高い位置に置き、また自分のために自分の都合の良いように神を利用しようとする姿勢につながるのではないかと思わされます。
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 2019年9月8日 
「マナ」加藤誠牧師
出エジプト記16章1−12節



 「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろう、と口々に言った。」(15節)荒れ野を旅するイスラエルの民に、神は夕方にはうずらを、朝にはパンを備えられた。大地に降りた霜のような不思議な食べ物を見て、人々は「これは一体何だろう」と口々に言ったとある。後にマナと名付けられた不思議なパン。それは、イスラエルの人々にとっては見たことも聞いたこともないような食べ物だった。



 イスラエルの民に与えられた掟とは、端的に言えば、どんな時でも神を信じて神の言葉に従って生きよという掟である。神に従って歩んでいくと苦しいことがあるかもしれない。エジプトにいたとき食べていたような食べ物は食べられないかもしれない。しかし、この何もない荒れ野で神は毎日毎日、朝にはマナを備え夕には肉を与えてくださる。そういう風に私たちは、神を信じて生きて行っていいのだ、というのがこのマナが示していることである。



 一体我々は何者なのだ…私たちは、あるいはモーセにしてみるならば、自分は、マナを与えられるに相応しいとは到底思えない存在である。一体我々は何者なので、こんなに試練も与えられるけれども、毎日毎日必要な水と食べ物を与えて生かしてくださるのだろうか。



 一体我々は何者なのだと、このマナの出来事を通してぜひ立ち止まって考えてほしいと呼びかけられている。それは食べ物のことよりももっと根源的なことである。一体私たちが何者なので、神はこんな風に私たちを救ってくださるのか。これは一体何だろうという、神様の祝福と恵み。それが私たちにも備えられ与えられることを覚えたい。
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 2019年9月1日 
「掟と法」加藤誠牧師
出エジプト記15章22−27節



 主がモーセに掟と法を与えられたのは、荒れ野を3日進みマラという場所に着いてのことであった。近年日本では自然災害が多いが、災害直後に必要とされるのは、それが地震であっても豪雨であっても水である。恐らく二日分の水が確保されれば生き延びることが出来る。マラの水が苦くて飲めないということは、イスラエルの人々にとって生命の危機的状況であった。モーセへの不満、神への不信を神は一本の木を用いて解決する。



 旧約聖書には「掟」「法」という言葉が散見される。申命記はそれ自体モーセがイスラエルに語り聞かせた「おきて」であるので、聖書の民にとって「掟」がいかに大切であるかが分かる。

 興味深い事にこの「掟」と「法」を主はイスラエルにではなくモーセに与えられる。民に与えられるのはこの後である。まずはモーセが神の掟と法に従うことが求められた。ここで覚えたいのは、神はモーセに対して生命維持に必要なマラでの水を苦いものから甘いものに変える奇跡をもってイスラエルを救った後に、モーセに掟と法を与えられたことである。



 「わたしはあなたをいやす主である」と26節に記されている。口語訳聖書では「わたしは主であって、あなたをいやすものである」とあり個人的には口語訳の方が好きである。最初の任地での主任牧師、尾鼻先生の口癖の聖句であった。そして生涯「薬」を服用しなかった。勿論その信仰の行動を指導されたことはなかったが、心に響いた聖書の言葉に命がけで従う信仰者の姿は教会員がそして私が目撃した。尾鼻先生にとっては自分を生かす「掟」と捉えておられたことが今になって分かった気がする。
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