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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2019年8月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2019年8月25日 
「海の歌」加藤豊子牧師
出エジプト記15章1−11節



 15章には、神がイスラエルの民をエジプトから救い出してくださったという出来事を覚えて神に感謝し、神を賛美している歌が記されています。1−18節の長い歌と21節の短い歌の二つの歌があります。アロンの姉である女預言者ミリアムが歌った短い歌が元になって、後日長い方の歌が作られたと言われています。



 「海の歌」とあるように、特に葦の海を渡ったときのこと、エジプトの軍隊が海に呑み込まれる様子などが多く記されています。この讃美を見て気付かされるのは、「主は」「あなたは」という言葉が主語となって始まっている歌が多いということです。「主は大いなる威光を現し 馬と乗り手を海に投げ込まれた。」「あなたが右の手をのべられると 大地は彼らを呑み込んだ。」そこには指導者モーセの名前は一度も出てきません。神が前面に立って戦ってくださった、勝利を与えてくださった。そのことが、力の限りに歌われています。



 「あなたは慈しみをもって贖われた民を導き 御力をもって聖なる住まいに伴われた。」(13節)

 「慈しみ」(ヘブル語でヘセド)は、旧約聖書に度々出てくる、神と人間との関係を表す大切な言葉です。人間同士、人と人とが契約を結ぶ場合、どちらかが約束を破れば、そこでもう関係は壊れてしまう、終わってしまうということになりかねません。しかし神は、慈しみをもって私たち人間と契約を結んでくださいました。私たちは何度も約束を破り、神に背を向け従わないということを繰り返すわけですが、それでも神は、私たちとの関係を保ち、維持しようとしてくださいます。そのような神の愛が、この慈しみという言葉に表されています。
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 2019年8月18日 
「静かにしていなさい」加藤誠牧師
出エジプト記14章5−14節



 この14章の前半は、考えてみると不思議なことが記されている。主はモーセに告げてわざとエジプトの軍隊に狙われやすい、袋小路のような場所に宿営させる。当然不満の声は上がったであろうが、モーセによって語られたのは「パロとその全軍を通してわたしは栄光を現し、エジプトはわたしが主であることを知るようになる」であった。「そこでイスラエル人はそのとおりにした」とある。つまり彼らはエジプトの王が彼らの後を追ってくることを承知の上で主の言葉に従ったのである。



 実際に近づいてくるパロの戦車の勢いにイスラエル人は非常に恐れ主に向かって叫ぶ。更にはモーセにも詰め寄る。彼らは火と雲の柱を見ていたはずである。しかし彼らが目を上げて見たのはパロの軍勢であった。恐怖におののくイスラエル人にモーセは「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と命じる。



 一月ほど前に山本将信牧師が亡くなった。東海教区時代にお世話になり、どんなに難しい課題のある教会でも笑顔を絶やさず誰からも信頼される牧師であった。隠退直後にクアラルンプール日本語教会への短期牧会をお願いした。快く引き受けていただいたが、一か月ほどで体調を崩され急遽検査入院をし大腸ガンが見つかった。手術を経て闘病生活が始まった。クアラルンプール日本語教会の代表である諸江氏は山本牧師が帰国されてから毎日聖句を記した葉書を送り続けた。私たちも勿論祈ってはいたが、毎日届くみ言葉が、厳しい闘病生活の痛みの中で山本牧師を支えていたことは想像に難くない。



 「主はあなたたちのために戦われる。」とモーセは語る。主イエスが戦われた十字架の救いがあるからこそ、私たちは主の救い静かに待ち望むことができる。
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 2019年8月11日 
「導かれる主」加藤豊子牧師
出エジプト記13章17−22節



 「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」(17節)

 ペリシテ街道とは、地中海沿いを通る幹線道路で、イスラエルの民の先祖たちが暮らしたカナンの地への近道でありました。しかし、神は彼らを近道へは導かれず、シナイ半島を南へ下る、遠回りの道へと導かれました。そこは、人が住むには困難な荒野で、敵に襲われる心配はなかったかもしれませんが、大変厳しい道のりでした。この荒野の旅は、イスラエルの民にとっては信仰を試され、訓練される道でもありました。私たち信仰者の歩みも導かれ方は夫々ですが、自己中心な私たちが神の前に砕かれ、神に信頼する者へと変えられていくために、荒れ野のような道へ導かれる、通らされるということがあるのだと思います。



 「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」(21節)

 イスラエルの民の先頭に立った柱がどのようなものであったのか、想像するしかありませんが、昼と夜と、別の柱が現れたということではないでしょう。昼には雲のように見え、夜には火のように見えたというこの柱は、神の臨在、神が確かにそこにおられるということを示すものだと思います。荒野を旅するイスラエルの民の姿は、私たちの教会の姿であり、先頭に立つ雲の柱、火の柱はイエス・キリストご自身であると言えるのではないでしょうか。神が共におられるという恵みは、イエス・キリストを通して今、私たちに与えられています。
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