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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2019年5月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2019年5月26日 
「モーセ誕生」加藤豊子牧師
出エジプト記2章1−10節



 出エジプト記は英語でExodusと書き、脱出という意味があります。この言葉はギリシャ語の「外へ」という言葉と「道」という言葉が組み合わさってできています。エジプト国内でおびただしく数を増していったイスラエルの人々は、エジプトの人々にとって脅威となりました。その力を弱めるために、イスラエルの人々は強制労働をさせられその労働は、過酷を極めました。このようなエジプトにおける奴隷の苦しみから神がイスラエルの民を救い出し、脱出させてくださった、その救いの物語が語られています。そして、この出来事の指導者、リーダーとして選ばれたのがモーセです。



 モーセはレビ家に生まれました。「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め」とのファラオの命令が下された中、隠しておけなくなった両親は、その子をパピルスの籠に入れてナイル川河畔の葦の茂みの中に置きました。ファラオの王女によって見つけられ、様子を見守っていた姉の機転で実の母親が連れてこられました。王女から、その子に乳を与え育てるようにと頼まれて、モーセは母親のもとで育てられることになりました。



 その子をナイル川の河畔に置いたとき、両親は我が子の命を神に委ねました。どんな思いでその子を手離したことでしょう。母親は再び我が子を腕に抱いたとき、王女から託されたかたちですが、この子は神から預けられた子だと、そのような思い、信仰を持って育てたのではないでしょうか。王女は、「水の中からわたしが引き上げたのですから」と言ってその子を「モーセ」と名付けました。奴隷として苦しめられているヘブライ人でありながら、エジプトの宮殿の中で王女の子どもとして育つという、この複雑な立場も、後に指導者として立たされ、救いの計画に用いられるために必要なことであったことを思わされます。
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 2019年5月19日 
「イスラエル人」加藤誠牧師
出エジプト記1章1−14節



 出エジプト記は内容的に創世記から続いてはいるが、好意的に迎えられたヨセフの時代はとうの昔に過ぎ去ったことが示されている。ヨセフのことを知らない新しい王は、イスラエル人を脅威に感じた。「増え広がった」と表現されるが、出エジプト記12章には、エジプトを脱出した時の人数が記録されている。壮年男子だけであるが、およそ60万人とある。女性や子供、老人を含めれば300万人前後と想像される。1章に記されている人数は70名であるから、新しいエジプト王が警戒しても不思議ではない人数である。ちなみに12章には彼らがエジプトで暮らした期間は430年と記録されている。



 教団は海外に約20名の宣教師を派遣している。多くは日本語(日系人)教会で働いている。戦後最初の宣教師が派遣されたのはボリビアである。日本人居住地では今日も日本語教育が行われ、日本語を話す宣教師が必要とされている。これが米国だと3世になると言語も意識も完全にアメリカ人になるが、南米では時を経ても日本語を話す日本人コミュニティーが独特の存在感を放っている。彼らがその地位を獲得するまでは、偏見や迫害、重労働があったことが宣教師たちによって伝えられる。



 今日ですら異国で差別されながら暮らすことの大変さはニュースでも知ることが出来る。エジプトに移住して400年近く経ったイスラエル人が直面したのは、国を挙げての迫害であった。虐待という言葉が2度繰り返されているが、「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」との記述に、彼らの存在を守り祝福しようとする神の意志を見る。神の救いの物語これから共に読んでいきたい。
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 2019年5月12日 
「呼びかける声がある」加藤誠牧師
イザヤ書40章1−8節



 イスラエル民族ほど不思議な民族はいない。国としてはサウル王、ダビデ王の活躍で独立国となるも北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し、北はアッシリアに南はバビロニア帝国に滅ぼされる。それから2500年も経って同じイスラエルという名の国が復興した。世界史にも例を見ないと思う。



 さて、イザヤ書40章はバビロンに暮らすイスラエル人にイザヤを通して神が語りかけられたことが記されている。内容は小見出しにあるようにエルサレムに向けての旅立ちである。しかし人々の反応は自分たちは「草」「野の花」であるというものであった。これはどんなに立場が弱くてもバビロンを離れては生きてゆく事が出来ないという意味であろう。強制移住させられた地で儚く人生を終えた人たちを見てきた人の偽らざる声であろう。それに対してイザヤは「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と語る。考えようによっては壮絶とも言える宣言である。イザヤは現実を認識している。人の弱さも知っている。しかし語りかける声を聴いたイザヤはイスラエルの民を励ます。「羊飼いとして群を養う」神を語る。子羊を懐に抱く神を語る。誰一人として旅の仲間を見捨てないリーダーがいることを語る。イスラエルには呼びかける声があり、その声を聴く預言者がいた。



 今日も「呼びかける声」がある。問題はそれを聴く人がいるかであろう。そして聞いて従う人がいるかであろう。教会にのみ託されているとは思わない。キリスト教主義学校で聞く人もいるであろう。聖書を読んで聞く人いるであろう。しかしやはり神は礼拝を通して聴く人を求めておられるのではないだろうか。
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