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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2019年1月27日 
「祈り」加藤豊子牧師
ルカによる福音書18章1−8節



 神様を信じる者にとって、「祈り」とは呼吸であると言われています。それほど大切なものでありまた、それなしには生きていけないものでもあります。

 主イエスは弟子たちに、あるたとえ話をされました。その目的は1節に記されているように「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でありました。



 このたとえに出てくるのは、神を畏れず人を人とも思わない裁判官とやもめの二人だけです。わいろなどが横行していた時代だと思われます。貧しいやもめにそのようなものを用意することはできません。ただこの裁判官に何度も繰り返し、「相手を裁いてわたしを守ってください」と訴えるしかなかったのです。するとこの裁判官は「うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう」と彼女の願いに答えてくれたと言うのです。



 祈り続ける、ということが難しいことがあります。わたしたちは皆祈ることにおいて、あきらめたり忘れてしまったりということがあるのではないでしょうか。不正な裁判官でさえ願いに応えてくれるのなら、まして真の神が、わたしたちの祈りを聞いてくださらないことがあろうか、と主イエスは言われました。



 貧しいやもめのように、何も持っていない、誰にも頼れないという状況の中でも、わたしたちには祈ることがゆるされている、祈りこそわたしたちにとって最大の武器となることを覚えたいと思います。
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 2019年1月20日 
「神を賛美するために」加藤誠牧師
ルカによる福音書17章11−19節



 重い皮膚病については旧約聖書のレビ記に記されている。罹患も治癒も判断するのは祭司である。つまり通常の病とは区別される。それは元々の言葉が「打たれた」を意味する言葉からもうかがえる。つまりここに登場する10人は「神に打たれた」人たち。それ故に家族と離れ、社会から断絶した生活を余儀なくされた人たちである。



 彼らは主イエスに「憐れみ」を求める。普通に考えれば「癒し」を求めたと理解する。主イエスは彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは主の言葉を信じて出かけるが、その途中で癒される。すると一人が神を賛美しながら引き返して主に感謝した。すると主イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った」と言われた。



 私にはこの話は辛い。なぜなら自分はどう考えてもこの一人ではなく残りの9人に相当すると考えるからである。しかもこの9人は主イエスに言われた通り祭司のところに向かったのである。私がこの9人の1人だとすれば、祭司の後は社会復帰か家庭復帰を願うであろう。そして主イエスのことは次第に忘れていってしまうかも知れない。



 「あなたの信仰があなたを救った」という表現はルカによる福音書に4回登場する。いずれも対象は市井の人たちである。ファリサイ派の人たちから「立派な信仰」とは評価されない人たちに対して主イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われる。「信仰」は意志ではない。それはむしろ「信心」であろう。「信仰」は神から与えられるものである。同時に主イエスに対する「眼差し」に対して人は責任を持つべきであろう。たとえそれがどんなに小さくても。
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 2019年1月13日 
「信仰」加藤豊子牧師
ルカによる福音書17章1−10節



 弟子たちは主イエスに「わたしどもの信仰を増してください。」と願いました。自分たちの信仰は足りない、少ないと思っていたということでしょうか。主イエスの答えは、もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう、というものでした。一体何を言っておられるのか、全く理解できないと言いたくなるような言葉です。



 信仰を増してくださいと願う弟子たちからは、信仰を自分の所有物のように捉え、またそれを量的に増やすことができると考えている姿が見られます。自分たちには信仰があると思っていた、しかしそれが少ない足りないと自覚していた、もっとその信仰が増えたら、自分たちはより大きな働きができると期待していた、そのような思いだったのかもしれません。



 主イエスのこの驚くような答えは、信仰とは人間の所有物として捉えるものではなく、神から与えられるものであるということを示しています。そして神の賜物であるが故に、その信仰のあるところには、人の思いを越えた大きな変化がもたらされるということが示されています。



 イエス・キリストは十字架に架かられ、救いの道を開いてくださいました。罪のゆるし、救いというものは神の恵み、賜物です。人が努力して手に入れるものではありません。そして救い主を信じる信仰、救いの出来事を信じる信仰もまた、それに伴って神から与えられる賜物であると言えます。与えられた信仰は神の働きであるが故に、その人の内側に大きな変化をもたらし、またその人を他者を愛するものヘと造り変えて、外に送り出す神の力となることを覚えたいと思います。
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 2019年1月6日 
「ラザロに聞け」加藤誠牧師
ルカによる福音書16章19−31節



 主イエスのお話は、平易でありながら私たちの理解の及ばない点が多々発見されるので、私などは読めば読むほど謎が深まることがよくある。そもそも主イエスの話の登場人物に名前が付いている事自体珍しい。ラザロという貧乏人とある金持ちの話であるが、いつものように?肝心な部分がカットされている。



 アブラハムが登場し、金持ちが黄泉で苛まれている理由を告げる。それは彼が「生きている間に良いものをもらっていた」からで反対にラザロは「悪いものをもらっていた」から宴席にいると言う!!確かにこの世には不公平、不平等がある。では聖書はこの世で不平等を受けた者は、死後神の宴席に招かれると言うのであろうか?



 金持ちの家に生まれ金持ちのままで死んだ人は黄泉にいくのであろうか? ラザロに聞きたいが、ラザロの言葉を聖書は記録していない。新約聖書にもう一人別のラザロが登場する。ヨハネによる福音書に登場するラザロは主イエスによって死から復活するが、不思議なことに聖書は彼の言葉を一切記録していない。



 黄泉で苦しむ金持ちは、アブラハムに地上に残る5人の兄弟のためにラザロを派遣してもらえないかと頼む。ここで「悔い改め」という言葉が登場する。アブラハムはモーセと預言者、つまり聖書に耳を傾けないなら死から復活した人にも耳を傾けないと言う。(ヨハネ福音書は復活したラザロを殺害する動きがあった事を伝える)反対に読めば、聖書に耳を傾けることにこそ「悔い改め」の秘訣がある。
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