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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年11月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2018年11月25日 
「放蕩息子」加藤豊子牧師
ルカによる福音書15章11−32節



 「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」この三つのたとえ話に共通しているテーマ、それは失われたものが見つかった喜びです。そしてその喜びは、神様のもとを離れてしまった者が戻ってきたことを喜ぶ、神様の大きな喜び、天の喜びを表しています。



 弟息子はまだ親が亡くなったわけではないのに、自分がもらうことになっている財産の分け前を今、全部くださいと父親に求めました。そしてそれをすべてお金に換えるとそれを持って遠くへ旅立ちました。彼は、父親から、この家から離れたかったのか、縁を切りたかったのか…。家を出たら別世界が待っている、自分の好きなように生きられる、そう思ったのでしょうか。しかし、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまい、空腹のために豚の餌でもいいから食べたいと思うほどの状況に陥りました。



 「そこで、彼は我に返って言った」(17節)とあります。「我に返って」という言葉は、言語を直訳すると「自分自身に帰る」となります。この言葉は、本当の自分を取り戻す、あるべきところに帰るということを意味しているのではないでしょうか。彼は方向を変え、神様のおられる方へと歩み出しました。この姿こそ、悔い改めるという言葉が示す行動であろうと思います。彼が家を出てから、ずっと待ち続けていた父親は、弟息子を見つけると走り寄り、彼を抱きしめました。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」こう言って、父親は祝宴を開きました。戻って来た息子を迎え入れ、ただひたすらそのことを喜ぶ父親の姿に、神様の私たち一人一人に対する愛を思わされます。
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 2018年11月18日 
「無くした銀貨」加藤誠牧師
ルカによる福音書15章8−10節



 ルカ15章にある3つのたとえの2番目のお話です。このたとえに共通するのは「大きな喜びが天にある」ことです。羊も銀貨も見失っていたものが見つかる話です。神様と人間が例えられていることは直ぐにお分かりになると思います。ただ、この二番目のたとえでは女性が「天の喜び」の体現者です。いわば女性が神様の喜び、神様の立場を表しています。聖書に登場する人物は男性が圧倒的に多い中で、ルカは女性を神様の喜びを表す代弁者として用いています。主イエスが神様を「父」と呼ばれたこともあり、神に「男性」のイメージを抱きやすいのですが、この出来事は私にとっては非常に新鮮です。



 当時の女性は家にお金があっても自由にならなかったと学者は言います。所有することが許されたのは持参金だったそうです。つまり万が一の時にわが身を助ける唯一の財産です。「見つけるまで探す」女性の姿は同時に神が神のもとを離れた人間を探し求める姿を表します。



 二週間ほど前に活水女学院で通訳の奉仕をしました。一日修養会で地元の牧師が講師で招かれていました。午後私が参加したクラスでは水野源三さんのビデオが上映されました。脳性マヒで9歳の時に目と耳以外の機能を失った彼が、「まばたきの詩人」と呼ばれるようになった詩が何編か紹介されました。そのビデオで語られていたのが、神に見出され生かされている喜びです。そこには身動きの全く取れない水野源三に彼にしか分からない感性をもって喜びを与える神様への感謝がありました。同時に「見つけるまで探す」神様の愛が示されたビデオでもありました。
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 2018年11月11日 
「見失った羊」加藤豊子牧師
ルカによる福音書15章1−10節



 「見失った羊」のたとえ、という小見出しがついていますが、ここは保育園や教会学校で、子どもたちによくお話しをした箇所です。聖書には、「見失った一匹」としか書かれていないのですが、子どもたちへのお話の中ではいつも羊は「こひつじ」であり、「メーコ」という名前を付けたりします。「迷子のメーコ、羊飼いに見つけてもらえてよかったね、うれしかったね」そんな気持ちを子どもたちと共有することができます。



 しかしこのたとえ話はよく読んでみると、見つけてもらった羊の喜びよりも、見失った羊を見つけた羊飼いの喜びの方が、より大きく伝えられているのがわかります。羊飼いは友達や近所の人々を呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言います。そして「大きな喜びが天にある。」とあるようにその喜びは、一人の罪人が悔い改めて帰ってきたことを喜ぶ、大きな神の喜びを表しています。



 主イエスのもとに、徴税人や罪人が話を聞こうと近寄ってきました。それを見た律法学者たちは、主イエスが彼らを迎えて一緒に食事をしていることに不満でした。なぜなら、律法を守ることができない彼らが神に受け入れられることは、律法学者たちにとっては許せないことだったからです。主イエスは律法学者たちに、すべての人を招いておられる神の大きな愛を伝えたかったのです。



 15章のテーマは、失われたものを見出した神の喜び、ということができると思います。そこには、私たち一人一人を、大切な存在として見ていてくださる神の眼差しがあります。
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 2018年11月4日 
「神の国で食事を」加藤誠牧師
ルカによる福音書14章15−24節



 私たちは神の国の食事を知らない。「盛大な宴会」と主イエスは言われたが、中身を知っている人は誰もいない。事はファリサイ派の議員の家の食事の場であった。7節には「イエスは招待を受けた客が上席を・・・」とあるので、かなりの規模の食事会であった事がうかがわれる。そして客の1人が「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言ったことを受けて主イエスは16節からのたとえをお話になられた。



 たとえはあくまで例えであるからツッコミどころを間違えるととんでもない解釈にたどり着くことになる。実際にはファリサイ派の議員の招きを受けたからこそ彼の家の食事会は(想像だが)満席であったろう。それゆえ「皆が次々断る(18節)」などということはあり得ない話である。



 家の主人は怒って僕(単数)に社会的弱者を連れてくるように命じる。更には通りに出て家いっぱいになるまで連れてくるように命じる。ルカの生きていた時代は初代教会の時代である。宣教がユダヤ人の壁を越えて行われるようになった最初の時代を生きた人である。主イエスの十字架と復活が何を意味しているのかをパウロと共に考えた人でもあろう。主イエスの十字架は本来神の国に招待されない人が(つまり全ての人が)十字架の故に招待されるようになった出来事である。律法を守ることが前提のファリサイ派の人たちには、考えられない出来事であった。



 私たちは神の国の食事を知らない。しかし招いてくださるのが主イエスであるが故に、招く務めを果たしてゆきたいものである。
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